聖書律法よりも自然法を選択する人々は実質クリスチャンではない


クリスチャンで、自然法を法律の根拠に置く人々は、本当はクリスチャンではない。

彼らはクリスチャンの仮面をつけた自然主義者である。

法律とは、倫理に基礎を置く。倫理すなわち善悪の判断である。

だから、法律は不可避的に宗教的であり、宗教を離れた法律など存在しない。

だから、法律を定める者(法源)は、不可避的に神である。

彼らは、何が善であり、何が悪であるかを決定する者なのであるから、神である。

自然法主義者は、自然を法源に据える。

聖書法主義者は、聖書の神を法源に据える。

自然か聖書の神か、この2つの戦いは、今キリスト教界で進行している主要な戦いの一つである。

自然を法源とする人々は、自然を造られたものではなく、自存するもの、すなわち、自立的存在と考えるので、異教思想である。

聖書は、自然を神の創造と見る。

ローマ・カトリックは、自然を自存と考える。神の創造は、その永遠の昔から自存する自然に追加されたものと考える。

だから、ローマ・カトリックは、聖書的キリスト教ではなく、異教思想なのである。

あなたが、もし世界の無からの創造を信じるならば、自然法思想を拒否しなければならない。

自然を法源とする発想をすべて捨てなければならない。

あらゆる法の根源は聖書の神にあり、その神が聖書において啓示した法こそ、あらゆる法の基礎であることを受け取らなければならない。

聖書は、自然を堕落したものと教えている。

祭司は、自然にできたもの、聖所にあるすべてのものに血を注ぎかけて聖めなければならなかった。

なぜならば、自然そのものがアダムにおいてともに堕落し、贖いを必要とする状態に変わったからである。

だから自然をそのままの状態で受け入れることはできない。(*)

聖書律法を捨てて、自然法を受け取るすべてのクリスチャンは、実質的に異教徒であり、サタンの弟子である。


(*)
我々が受け入れられる自然とは、贖われたもの、つまり、キリストの血によって買い取られたものでなければならない。

キリストは十字架において、自然をすべて聖められた(コロサイ1・20)。

しかし、これは、法的な聖めであり、実際的な聖めではない。

自然は、そのままでは罪の残存がある。

自然が回復するには、クリスチャンによる「適用」が必要だ。

神の栄光を表すという目的のために使用するという「動機」における転換がなければ、自然は穢れたままだ。

我々クリスチャンが正しく使用しない限り、自然は無垢にならず、規範にもならない。

 

 

2008年12月31日

 

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