字義的解釈と象徴的解釈の区別47


<Q>
石打ちの刑が大事ならば弟子達は信徒達にその重要性を教え込んだはずでは。彼らはユダヤ人だから戒めの重要さはわかっていたはずでは。又、国教となったローマで少なからずでも行っていてもおかしくないのですが、そういった事は聞いたことがありません。又、新約の中にも見うけられません、ユダヤにおいて重要な掟が。後、幕屋も神殿も同じ旧約であり、石造りの神殿が旧約世界の象徴として存在していると思うのですが。十字架のように。御意見をお願いします。

<A>
弟子たちは信徒たちに律法を守るべきだと教えていたというのは、イエスの命令「私が命令したことを教えなさい」から当然推測できます。
国教となったローマは異邦人的キリスト教を信じ、ユダヤ的要素を毛嫌いし、律法から離れる傾向があったため、石打をしなかったのです。西洋のキリスト教は、大部分律法そのものを敬遠する傾向にありました。我々はそれが間違いだったと主張しているのです。
新約聖書において石打はたくさん事例があります。
姦淫の女の個所において、人々が女を石で打とうとしたとあります。
また、イエスの言葉に怒ったパリサイ人たちがイエスを石で打とうとしました。
パウロは、冒涜を犯したとして石を投げつけられて死にかけました。
これらの個所において、新約聖書の記者は、石打そのものを否定していません。
石造りの神殿が旧約秩序を象徴しているとは言えますが、幕屋も同時に旧約秩序の象徴です。
石による刑罰が旧約に属するものであり、新約には不適切であるということを証明するためには、神殿を持ち出すことは不適切でしょう。
もし新約時代において石が不適切ならば、新約時代においては、神殿を構成するのは我々の肉なわけですから、肉による処刑がふさわしいということを言わねば首尾一貫していないということになるでしょう。我々の肉体を使って受刑者を殴り殺すとか。
新約時代において、石打刑が不適切であるということを証明することはきわめて難しいでしょう。

ダビデがゴリアテを倒した個所において石が使われています。
キリストはダニエル書において、異邦人世界秩序を打ち砕いて成長する石として描かれています。
女がひき臼で悪い士師アビメレクの頭蓋骨を砕きました。(士師記9・53)

私たちはなぜ石打刑を避けなければならないのでしょうか。
御言葉に示されたことを変えるにはそれ相当の理由が必要です。
新約時代に、石打刑に変わるものは何かを説得力をもって示す必要があります。

 

 

2007年2月15日

 

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