人間にほれ込むな


ある友人が、私のことをラッシュドゥーニーのファンだと言った。

そこで、私は誰のファンでもない。私がラッシュドゥーニーの説に賛同しているのは、彼のファンだからではなく、彼が言っていることに同意しているだけだ、というと、「そうだろうか?」と言った。

人がどのような印象を持つかは、ある意味ささいな事に属するから、むきになって反論しなかったが、しかし、私のことをまったく理解していないので残念だ。

我々は、人間的な「ほれ込み」によって「教え」を選択してはならない。

まず第一に私はそれほどR・J・ラッシュドゥーニーにほれ込んでも、尊敬もしていない。

人間を手放しで尊敬するなんてのは、その実像を知らないからできることであって、人間はみんな下衆である。

私は人間にほれない。聖書は、人間にほれ込むことを禁止していると思う。

「好き」とか「敬愛」とかはいいが、「ほれ込む」とか「夢中になる」というのはよくない。

その先生を尊敬するので、教えまでも盲目的に受け入れるということは禁止されている。

聖書に対する無条件の信頼は命令されているが、人間に対する無条件の信頼は禁止されている。

だからクリスチャンにとって、アイドルは一人もいないはずである。

自分の目で聖書を読み、自分の頭で考え、私情をはさまず、冷徹に教えを選別すべきである。

これは「指導に不服従である」ということを意味しない。

自分の上にある権威に従うべきである。

自分を教えてくれた先生を敬うべきである。師弟関係を重視しない人間はクリスチャンではない。師匠に無礼を働き、たてつくなど、バーバリアンの業である。

先生を人々の面前で侮り、叱責するなど、非クリスチャン・非文明的行動である。

私が言っているのはこういうことではない。

日本人がとかくやってしまう、「人間依存」「甘え」「義理人情の世界」である。

世界というものは思想を中心に回っているのである。

キャベツをむいていくと芯が出てくるが、社会の芯にあたるのが、思想である。

共産主義社会の中心には、「人間は万物の究極の尺度である」というヒューマニズム思想が存在する。

この思想に基づいて、その他のものができてくる。

法律は、この思想に基づいて決められていく。

医者・法律家・建築家・芸術家・・・様々な職業は、この法律にしたがって業務を行う。

だから、社会の究極的基礎は、思想なのである。

思想とはかくも重大な要素であり、「義理人情」によって変化するようなものではない。

そのような感情的なもので動くものなど思想ではない。

自分の頭で考え、行動で実践し、結果を評価し、ときには様々な犠牲を払うようなものでなければ思想ではない。

だから、「あなたは○○さんのファンですよね」というような誤解には耐えられないのだ。

 

 

2007年6月2日

 

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