理性を啓示に優先させてはならない2


「理性を啓示に優先させてはならない」というなら、では、三位一体内部の契約について、三位の間のヒエラルキーについて思考するのも越権ではないか、問う人がいるかもしれない。

ヴァン・ティルの三位一体内部の契約に関する議論も越権ではないか、と。

そうではない。

なぜならば、それは聖書において啓示されているからだ。

我々は、啓示されたことについて考えることができる。三位一体内部の契約は、はっきりと啓示されている。改革主義の主流の契約観に従って「合意agreement」と考えたとしても、聖書にははっきりと三位一体内部において契約が存在したと記されている。
http://www.gpts.edu/resources/resource_covconfusion.html

以下の箇所は、神の三位の間で合意があることを示している。


そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(創世記1・26)

神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」 (創世記3・22)

わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。(箴言8・30)

今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(ヨハネ17・5)

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。(ヨハネ15・26)

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。(ヨハネ14・16)

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14・26)

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 (ヨハネ15・26)

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。(ヨハネ16・7)

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。(ヨハネ15・10)

三位の間にヒエラルキーがないとか、差を縮小化するとか、均一化することは絶対に間違いである。

それは、結局、ユニテリアンに道を開くことになる。

聖書は、はっきりと、三位の間に違いがあると述べており、そこに契約があり、合意があり、会話があり、社会があると記している。

だから、三位一体内部における契約を基礎として思考しないことは間違いである。

ヴァン・ティルが述べるように、我々の歴史、個々人の生涯、活動、すべての事柄は、歴史の始まる前に、三位一体の内部における合意によって取り決められており、それなるがゆえに、歴史において起きるすべてのことは確実であり、我々が未来の勝利を確信できるのもこの神の三位一体内部における約束、合意、契約があるからである。

神のペルソナが互いに取り決められたことは、究極であり、それは絶対である。

それ以外にこの世界において起こることは何一つない。

だから、我々は、確信を持って戦い、御国のために働くことができるのだ。

神の三位一体内部における契約という概念は、世界の究極的基礎である。

クリスチャンの力は、この絶対的究極的基礎のうちにある。

 

 

2008年10月27日

 

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