死刑制度について


<Q>
「故意に殺人を犯す人は律法に従って殺すべきだ」

これはわかりました。

しかし、気になることがあります。

イエス・キリストは山上の説教で(律法のバージョンアップ)にて

「七を七たびかけるほど許しなさい」と言いました

それでも殺人者は殺すべきなのでしょうか?

<A>
許しは、被害者に向かって言われているのです。殺人事件を処理する執行機関についていっているのではありません。


「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」(マタイ18・21)

つまり、「兄弟によって被害をこうむった人」は、「謝罪してきた場合に許すべきだ」ということです。

これは、法的な規定ではありません。なぜならば、パウロは、死罪を認めているからです。

「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、・・・です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」(ローマ1・28-32)

また、次のようにも言いました。

「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。」(ヘブル10・28)

為政者については、「剣を帯びた者」という表現をしています。

「それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」(ローマ13・4)

剣は、「死刑」を暗示しています。

もし新約時代において死刑が廃止されるべきならば、パウロはどうして「死罪」について口にしたのか。なぜ「モーセ律法を無視する者は死刑に処せられる」と言ったのか。なぜ「為政者が剣を帯びているのは無駄なことではない」と言ったのか。

マタイ18・22は、被害者であるクリスチャンは寛容になることを命じている教えであって、死刑廃止の根拠にはなりません。

モーセ律法において、被害者は、加害者の刑罰を決定できました。その上限は、同じ被害でした。つまり、「目には目」まで「歯には歯」まで被害を相手に加えることができた。

それ以上は、禁止されていた。

イエスは、山上の説教において、このモーセ律法の規定は、「復讐の公認」と考えてはならない、ということを教えておられるのです。

つまり、「モーセ律法ではこれだけはできるということになっている。だから、この加害者をとっちめてやれ!」というような非寛容、慈愛心のない心ではだめだということです。

クリスチャンは、「許し」をベースとしなければならない。自分も神から許された者として、他者に対して寛容になるべきだ、ということです。

もし法的に「490回の許し」が命令されているならば、社会は崩壊します。犯罪者の天国になります。

まとめ:

社会の法的な基礎は、あくまでも「同害刑法」、目には目、歯には歯、つまり、同じ被害をもって罰することでなければならない。

しかし、それが「復讐の公認」と考えてはならない。

あくまでも人は自分が神によって許された人間であることを自覚し、その許しを他者に適用していくことを主要な行動指針にしなさい、ということ。

<Q>
2つ目に

先生は子供がいじめられた時、その子供は反撃していいと言いました。

これは「目には目を、歯には歯を」と律法に書いています

しかし、イエス・キリストは

「あなたの右の頬が打たれれば左の頬も打たせなさい」

といいました。いったいどうなんでしょうか?

<A>
「右の頬が打たれれば左の頬も打たせなさい」という箇所は、ローマ軍に占領されていたイスラエルの状況を前提としています。

当時ローマ兵は、イスラエル人を侮辱して頬をぶったり、荷物を背負わせて歩けと命令することができました。

このような屈辱的な状況に「選民」であるユダヤ人は耐えられず、独立運動をする人々が現れました。(結局、イスラエルは、この独立運動によってかえって滅んでしまいます。)

しかし、イエスは、「悪者に手向かうな」といわれた。力に対して力で立ち向かうのではなく正義で立ち向かえと教えられたのです。

「左の頬を向けよ」ということは、「積極的に占領者に服従せよ」という意味です。

なぜ力で立ち向かうべきではないのでしょうか。それは、「恥辱の原因が律法違反にあったから」です。

なぜこのような屈辱的な状況があったかと言えば、律法に違反したからです。

申命記に、律法を守れ、守れば祝福され、破ればのろわれるとの神の約束があります。

「あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」(申命記28・9−13)

イスラエルは律法を破ったので、のろわれて、他民族であるローマ人の下に服従することになっているのです。

だから、力で解決しても無駄です。倫理が原因でこうなったのに、力で解決しようとすれば「力への信仰」になり、非聖書的です。

聖書の契約は、あくまでも「倫理」です。倫理を正せ、そうすれば、他国人から支配されることはない、と。

イエスがこの箇所で命令されているのは、「倫理の回復」です。

その第一は、神が立てられた権威に従うことです。それが悪者であっても。

自分の上に立っている権威に服従することによって、倫理は回復される。

異邦人であるローマ人の命令に服従すること。そのようなへりくだった姿勢がなければならないということをイエスは教えておられる。

<Q>

「先生は子供がいじめられた時、その子供は反撃していいと言いました。」

<A>

これは、自分の身を守ることは罪ではないという意味においてです。

いじめっこは、相手の気持ちが分からないか、いじめることによって自分を喜ばせるタイプの人です。

そういう人から被害を受けないためには、こちらを攻撃すると損失を受けることを知らしめることです。

自分の権利として、自分を守ることは正しいことです。

反撃するとか、学校の先生によって言ってもらうとか、それでもだめなら、親を出して相手に注意をしてもらい、それでもだめなら裁判に持ち込むとか、あらゆる法的に正しい手段を講じる権利が私たちにあるのですから、それを行うべきです。

この箇所は、いじめっこに対して服従することを教えているわけではありません。

文字通り服従しても解決はないでしょう。

このように言うと、先のイスラエルの場合とどのように違うのか、という質問になりそうです。

イスラエルの場合は、裁きの後の話です。

つまり、裁かれてローマの支配下に入った。

それは、ローマは、神がイスラエルの上に立てられた権威であった。だから、服従すべきです。

しかし、いじめっこは、自分にとって権威ではない。

権威でもないものに対しては、堂々と権利を主張すべきです。

 

 

2009年7月27日

 

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