なぜ聖書なのか?5


> 聖書には「神の言葉である聖書を疑ってはならない」と書いてあります。
> しかし、他の宗教も同じく「我々の会社製品が唯一で他の会社の製品は粗悪品」と言っているから
> 私はキリスト教の前提がどのようにして正しいのか先生に質問しました。
> もうこの時点で私はキリスト教を含めた宗教全般(思想や哲学や科学もふくめて)を疑っているわけです。
> 私は簡単に言うと聖書を疑ったわけです。
> 1、だから私がキリスト教の前提がどのように正しいのかを、先生に質問したことは神への冒涜、聖書の権威への反逆でしょうか?

神の前では冒涜、聖書の権威への反逆になります。

> 2、もし私が1に書いてあるように神への反逆をしたのであれば、誰もキリスト教を信じれないのではないでしょうか?
> なぜなら全ての宗教や科学や哲学が「我々の会社の製品が唯一大丈夫で他の会社の製品は粗悪品」と言っているから初めにどうしても
> 「調べる」ことが必要になってくるからです。

神はアダムに対して、私の言葉が本当に正しいかどうか「調べ」なさい、とは言われなかったのです。
調べなさい、と言ったのはサタンです。
人間は、「調べる」ということをしなくても神を知ることが本当はできるはずです。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1・20)

我々人間は、神の目に見えない本性と永遠の力と神性を証言する無数の証人と証拠に取り囲まれている。

その神の声を押し殺し、聞かせないようにしているのは、「自我」と「サタン」です。

> 3、それとも、この最初の「調べる」という行為は許容範囲なのでしょうか

神の前において、許容範囲ではありません。

懐疑から出発する方法は、ヒューマニズムの方法であり、その前提に「万物の尺度は人間理性である」という証明されていないドグマがあります。

「万物の尺度は人間理性」であるという前提を立てている時点ですでに、「人間は神の被造物であり、臣下である」という聖書の主張に違反しており、神の主権に対する挑戦です。

聖書において、神の命令とは「問答無用に」従うべき対象です。

人間とは、神に「目の前の土をすぐ食べなさい」と命令されたらただちにそれを「理屈ぬきで」従うべき存在です。

主権とはそのようなものです。

> 4、もし許容範囲なのであればなぜ許容範囲なのでしょうか
> 5、私が言いたいことを簡単にまとめると未信者が混沌と、混乱しているこの世界でキリスト教を信じるには一番初めには、ある程度の証拠がないと信じれないのではないでしょうか?(ここでいう証拠と言うのは聖書の前提を正しいと裏付けるものや事の ことです。それはそれは「論理破綻を招かないから」とか、「理性をまったく拒絶していないから」などの先生の言ったことも含みます。)

人間にとって神の存在、神の正しいこと、聖書の真理は自明のことです。

さらに、聖書には次のようにあります。

「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。 」(ローマ1・19)

「神が明らかにされた」つまり、神が目の前に「神について知りうること」を「分からせた」のです。

「分からせた?俺はわからないよ」と言ったら、それは嘘をついているのです。

神を疑う人は、ことごとく「真理を押し殺し」ています。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 」(ローマ1・18)

真理をはばんでいるのは、「不義」です。

「無知」が真理をはばんでいるのではなく、「神の法秩序に対する反逆」が真理を真理として認めようとしない原因です。

ただし、誤解していただきたくないのは、この「問答無用の服従」は人間の言葉に対してではなく、神の言葉である聖書に対してのみ取るべき態度であるということです。

人間の言葉、科学の学説、因習、人間の常識などについてまで疑ってはならないとは教えていません。

それゆえ、次のような図式を立てることができます。

聖書の神と聖書について・・・懐疑から出発することの禁止・・・絶対服従・・・演繹法的認識論を適用・・・経験科学の適用範囲外

それ以外(人間の言葉など)について・・・懐疑から出発すべき・・・絶対服従の禁止・・・帰納法認識論を適用・・・経験科学の適用対象

 

 

2009年3月12日

 

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