フルプレテリズムが異端であることを一発で分からせる方法2


フルプレテリズムは、「紀元70年に以前の天地が滅び、新しい天地が訪れたので、以前の律法は廃棄された。」と説く。

聖書に「天地が滅びない限り、一点一画たりとも廃れない」とあるからと。

律法が廃棄され、今はモーセ律法は効力を失ったという。

そして、彼らは「だから我々はもはや罪人ではない」という。

これは、「キリストの贖罪を不要にする教え」である。

「環境が変わったので律法の効力がなくなった」というから。

彼らは「いや、モーセ律法は廃棄されたが新たにキリストの律法が現れた」というが、じゃあ、そのキリストの律法とは何か示して欲しいというが示さない。

キリストの律法というのはどこに記されているのか?

もしはっきり示すことができなければ、これは「律法廃棄論」である。

ディスペンセーショナリズムを含め、律法廃棄論の決定的な間違いは、キリストを不用にすることにある。

律法が廃棄されたならば、キリストの贖罪は無意味である。キリストの贖罪が有効であるのは、律法が有効だからだ。

きまりがなくなった場合、そのきまりによる刑罰もなくなる。

となれば、その刑罰を免れさせる犠牲の存在も不用になる。

だから、あらゆる律法不要論、律法廃棄論は、究極のところ、反キリストである。

律法不要論であり、なおかつ正統的なキリスト教であることは絶対に不可能である。

キリストの贖罪を主張し、イエス・キリストの十字架の御業を信じるように勧める人々は、全員律法存続論を主張しなければならない。

だから、セオノミーと福音とは切っても切れない関係にある。

旧約聖書の律法の一部であっても、廃棄を主張するならば、その違反のために犠牲となられたキリストの御業を否定することになる。

正解はこれだ。

旧約聖書の律法は、ことごとく存続している。しかし、かつてのようなものではない。それは、バージョンアップされた。

どういうふうにバージョンアップされたかというと、超民族的超時代的規定になったということだ。

モーセ律法において、祭司はレビ族であったが、キリスト以降、祭司はキリストご自身であり、彼はユダ族である。

キリストにおいて、祭司制度が根底から変わった。祭司制度が変わった以上、律法も変わる(ヘブル7・12)と聖書に記されているから、律法も変わった。

じゃあ、どのように変わったかというと、パウロは、ガラテヤにおいて繰り返し「犠牲は本体に変化した」という。

つまり、動物犠牲はキリストご自身による犠牲に変化した。

そして、牛に関する規定は、新約時代において「牧師や教職者への報酬の支払い」に関する規定として読めという(1テモテ5・18-)。

つまり超民族的・超時間的になった。

さらにパウロは、旧約聖書の律法は新約時代になってけっして廃棄されたのではないと言う。


それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)

どこを探っても、律法廃棄論を聖書から導き出すことは不可能だ。

フルプレテリズムは、聖書から離れ、律法を廃棄するため、間違いなく異端である。

我々は、異端を信じる人々を遠ざけねばならない。

分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。(テトス3・10)

 

 

2008年1月31日

 

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