「多神教に帰る」では駄目だ


イルミナティの運動、共産主義の運動の目的とは、2000年にわたって徐々に築き上げられてきたキリスト教文明の破壊である。

ロスチャイルドによって破壊されたロシアは、ソ連の時代に徹底した無神論教育によって、人々はキリスト教から離れた。

19世紀末において、人々は、農民から王族にいたるまで教会に通っていた。

20世紀前半に起こったロシア革命において、教会が徹底して破壊され、教職者が処刑、流刑になり、ロシアからキリスト教が消えた。

ソ連が崩壊した後でもロシアは以前の状態に復帰していない。

ロシア革命にあたるイルミナティの「改革」は、太平洋戦争である。

太平洋戦争において、イルミナティは、GHQを通じて日本を「改革」した。

明治時代、日本は、教育勅語によって、聖書的キリスト教の影響を受けていた。

しかし、イルミナティが統治したことにより、そういった影響は根絶された。

ロシアと日本、いずれも道徳が徹底して破壊された。

キリスト教の影響が失われたことによって、人々は動物と化した。

金と欲の亡者となった。

佐藤優氏が、新しい日本の建設を「復古」においているが、一部正しい。

ただし、その復古が八百万の神に帰ることであるならば、間違いだ。

日本の原型は、多神教にはない。

これは、重要なポイントだから絶対にはずしてはならない。

日本は多神教の国ではない。

日本はもともとキリスト教の国であった。秦氏のもとで日本は、キリスト教の国であった。

しかし、あるときに徹底的な弾圧が行われて、キリスト教は表層から消えた。

キリスト教は地下にもぐった。それが、裏神道である。

裏神道は一神教である。

我々は、原初の日本にまで帰らない限り、「復古」は単なる「反文明」にしかならない。

日猶同祖論の重要性はここにある。

すなわち、イルミナティによって徹底して破壊された日本を再生するために復帰すべき古巣が何かを正しく見極めること。

これこそ我々が日猶同祖論を重視しなければならない理由だ。

多神教は、政治や社会体制を支える原理としては無効である。

なぜならば、究極が「多」にあるから。

「統一」に価値を持たせることができない。

多神教を国の理念におくならば、「統一」とは力による弾圧でしか達成できない。統一性を正当化できないから。

だから、多神教に帰っても、同じ多神教である共産主義以上のものにはならない。

「ひとつの法」という概念がないため、それぞれ個人が勝手に道徳を主張できることになる。

それを統一することにいかなる正当性もない。だからカオスを避けることができない。

「一位一神教」(神は一人だけであり、ひとつの人格しか持たないとする説。イスラム教やユニテリアン)でもだめだ。

「多」に意義を与えることができないから。

このような原理のもとで社会を建設すると、多様性を否定することになる。つまり、全体主義に陥る。

解決は「三位一神教」(神は三つの人格を持つ一人の神であるとする。聖書的キリスト教)にある。

この原理におて、「多」も「一」もどちらも究極であり、どちらが他方に優先するということがない。

だから、多様性も究極的な価値を持ち、統一性も究極的な価値を持つ。

統一性を強調するあまりに、多様性を否定する必要もない。

多様性を強調するあまりに、統一性を否定する必要もない。

新しい日本を築きあげるには、三位一神教しかない。

そして、この三位一神教は、日本の古代における神であった。

古事記を見ると、創造神は、三位であられた。

その三位が一人であるとはっきりと記されている。

日本を多神教に復帰させても、単なる回帰であって、発展にはならない。

現状をすべておさえ、その上に築き上げることができなければ、発展性がないではないか。

すべての日本人がこの認識に一日でもはやく立って、イルミナティの奴隷状態から解放され、独立を勝ち取ることができるように祈願する。

 

 

2010年5月3日

 

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