擬似聖書学者にご注意


昨日元旦のNHK教育テレビで、学者らしき人が旧約聖書の講義をしていた。

その中で彼は、「エリコの城壁が超自然的に崩れたという聖書の記述は、考古学的に証明できない。イスラエルがエリコに来た時代に、そこに町があったという物質的な証拠が見つかっていないから。」と述べていた。

彼は致命的なミスをしている。

そのミスとは、聖書の記述を経験科学で評価していることである。

彼は牧師の衣服を身に着けていたので、恐らく聖職者でもあるのだろうが、仮に聖職者であったならば、神の言葉を疑い、評価することができると考えている時点で免職に値する。

聖職者でなくて、学者であったとしても、クリスチャンの学者としては完全に失格である。

彼は、神の言葉と人間の言葉の区別をまるでしていない。

神の言葉は神聖不可侵である。

もし神の言葉が神聖不可侵でなければ、それを語ったのは神ではないのである。

聖書は聖書自身が、「これは神聖不可侵の言葉であり、これに手をつけてはならない」と証言している。

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40・8)

「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。」(ヤコブ4・11)

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5・17)

「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(黙示録22・18-19)

「聖書は廃棄されるものではない」(ヨハネ10・35)

イエス・キリストの生涯は、旧約聖書を成就するための生涯であった。もし旧約聖書が偽りとかフィクションであるならば、イエスの生涯そのものに意味はまったくなくなる。

イエスは寓話を成就するために来たということになってしまうからである。

聖書全体が、聖書を神の言葉として神聖不可侵のものとして扱っているのは明らかである。

我々は、あのような学者の言葉に騙されてはならない。

どんなに真面目に学問的な研究を積み上げていても、御言葉を疑い、人間の貧弱な知識を御言葉の上において、科学が御言葉を評価することを認める学者は、ことごとく冒涜者であり、学校から追放し、教会から追放すべきである。

なぜか?

キリスト教全体が倒れるからだ。

御言葉への疑いは、キリスト教と教会を根底から破壊する革命行為である。

これは、過激な言葉だろうか?私は過激派だろうか?

原理から説明しよう。

聖書は、神が世界を無から創造したと証言している。

つまり、創造の前には、神以外存在するものは何もなかったのである。

ギリシア思想は、創造の前に「自然秩序」というものがあったと主張する。

その場合、神の権威は創造世界の中だけに留まり、創造以外の世界については権威ではなくなる。そして、神は、創造の前から永遠に存在する「真善美」の価値基準によって評価されるべき対象となる。

神は、評価者ではなく、評価される者であり、基準や法ではなく、基準や法に従う者になってしまう。

だから、こういった思想では、神は、人間を完全にしたものに過ぎないのである。

この場合、コンピュータで言えば、神とはウィンドウズやマックのOSのフォーマットに従う一つのソフトである。

ハードディスクの中にある数あるソフトの中で最も優秀なもの、完全に機能するソフトである。

しかし、聖書は神をこのように描いていない。

神は、OSそのものを書いた人である。神はコンピュータの中にいるのではなく、コンピュータの外にいて、自由にそのOSを書き換えて、ルールを自由に変更できる権威のあるOSのプログラマーである。

だから、OSのフォーマットに従う必要はまったくない。OSの基準によって評価されるべきでもない。

「フリーズの原因になることもなく完璧に動いてくれる」などと評価を受けるべきではない。

神はこの世界において、誰からも評価されるべきではなく、誰の言葉にも影響されない。どの基準によっても裁かれてはならない超越者である。

神ご自身が基準なのである。「神は正しいか?」とか「神は存在するか?」というのは、愚問である。

「正しい」とか「存在する」とかいう概念が神よりも先在していると考えているからである。

「神は正しいか」ではなく「神の御性質を正しいと定義する」のである。「神は存在するか」ではなく「神の存在に関するあり方を存在と定義する」のである。

神は存在するか、という質問は、1mの原器に向かって「これは1mか?」と尋ねるようなものである。

「神と御言葉は、神聖不可侵であり、何人も侵すことを許されない」というキリスト教の基本中の基本をわきまえない人間が、堂々と聖書を講義し、人々を不信仰に誘惑しているというのが、19-20世紀の世界の悲劇の根本である。

神と御言葉には一切手を触れることが禁じられている。契約の箱の中を見た人々が死んだように、神と御言葉に触れた者は、裁きを免れない。

我々は、神と御言葉「から」出発すべきである。それだけが土台である。この不滅の土台を土台として扱わず、それを疑うあの学者は、自分の感覚を神聖不可侵としているのである。

彼は、人間の認識能力を絶対としたのである。

彼は、聖書学者ではなく、ヒューマニズム学者である。

彼は、基準を神から自分に移したからである。そして、自分の知識獲得の方法を絶対の方法として採用し、それによって、神と聖書すらも評価しようとしているからである。

ヒューマニズムは、創造者でもない者が、創造者ズラをして、すべてのものを自分中心に回そうとする「天動説」である。

聖書的キリスト教は、創造者を創造者としてふさわしく扱い、その存在と御言葉を神聖不可侵の土台として据え、それに手をつけず、それを前提とし、そこから出発する。

キリスト教を再建したい人の前には、2つの道しかない。

神と御言葉から出発して祝福されるか、自分から出発して呪われるか?

 

 

2005年1月2日

 

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