世界は神の法に帰るべきだ


1.
愛とは、「ハイ・サポート&ロー・コントロール」だと言われる。

つまり、「しっかり支えるが、支配しようとしない」態度。

子供が何になる(職業)にせよ、支援するという態度があれば、子供は親を恨まない。

しかし、子供に「医者になれ。」とか「○○大学に入れ。」という強制をし、そのようなエリート・コースに乗れなかったときに「おまえ、しくじったね。」と吐き捨ているように言う親は将来子供からしっぺ返しを食らう。

子供を支配し、自分の欲のために利用しようとしたからだ。

この逆の極端もある。

「こどもに何になってもいいです。勉強しなくてもいい。不道徳な道に入っても許します。」という放任主義の親。

これだと、子供は悪の中に落ちる。

子供の時代についた悪の習慣は大人になって取ることは難しい。

悪は、のろいであり、悪を行う習慣を身に着けた子供は大人になって社会不適応を起こす。

「子供の自由を尊重します」といって、倫理面においても放任する親は子供を憎んでいる。

聖書の原則は、


若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言22・6)

である。

2.
神の法は、支えであって、支配ではない。

この点を無数のクリスチャン、ノンクリスチャンが誤解している。

だから、我々のことを「人々をあのモーセのくびきのもとに置こうとする輩」と称するのだ。

聖書法は、交通規則のようなもので、「安全・快適で自由な交通を確保するため」に存在するのであって、「支配」し「コントロール」するためではない。

スピード制限があるのは、安全を考慮してのことである。

違反すると厳しく罰するのは、安全かつ自由な交通を確保するためである。

3.
秩序と自由を調和させるには、神の法を適用する以外にはない。

神の法を「高等法(higher law)」とした法律の体系を作ること。

人間の法は、容易に「規制」は「支配」に、「自由」は「放縦」に堕す。

悪人が法律を作ると、無用な支配と自由の束縛が起こる。

世界は神の法に帰るべきだ。

 

 

2009年10月18日

 

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