冷遇したら誰も献身しなくなるぞ2


ある神学校の教師が、若い時代に理不尽を耐え忍ぶ体験をさせたほうがよい。だから、神学校では学生にそれを体験させると述べた。

こういった考え方はまったく間違っている。

神は万人に対して「誰に対しても理不尽なことをするな」と述べておられる。

神学校の教師は、逆に、神学生に対して合理的に接することによって、合理性を尊ぶことを教えるべきである。

日本人の馴れ合いの人間関係、強者が弱者を虐げる人間関係、理屈よりも情が優先される人間関係を神学生に学ばせてどうする?

我々にとって世俗の人間関係は模範ではない。

先輩後輩の関係を強調すべきではない。議論を尊び、合理性を尊ぶ気風を作り出さねばならない。人間関係よりも真理が優先される、風通しのよい社会を作らねばならない。

我々にとって、聖書が基準なのである。世俗は捨てるべき対象でしかない。「異邦人を真似てはならない。」とあるとおり。

「いやいや、世の中はそうできていない。牧師だけがそんな世間知らずでは伝道できないでしょう。」というだろうか。

世間を学ぶのは、世間に出て仕事をすれば十分だ。

しかし、クリスチャンの真の人間関係を学ぶのは、クリスチャンの間でしかできない。

牧師や神学校の教師は、「これが本当の人間関係だ!」というのを神学生に見せるべきである。

神学生に本当の愛の人間関係を教えなさい。この世のそれとはまったく違う魅力的な人間関係を教えなさい。

理不尽な仕打ちをしてはならない。自分が間違ったら頭を下げ、真実の前に素直になることを身をもって教えなさい。

「うちの教派に対して絶対服従しなさい」なんて口が裂けても言ってはならない。

人を恐れて、神を恐れない献身者を作っても、神にとっては無用の長物である。

真理のためなら人間関係なんてどうでもいい、というような献身者を作らないと。

人を恐れる人間を「献身者」とは言わない。

たしかに、日本の神学校は「献身者」を作ってきた。ただし、それは「イエスへの献身者」ではなく、「教派への献身者」であった。

このような神学校教育によって、教派の体制は確立したかもしれないが、本当に世と戦って、人々の魂を勝ち取れる働き人は生まれなかった。

真理について無頓着なサラリーマン牧師に一体何ができるというのか?

 

 

2005年11月23日

 

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