山谷さん、ウソはよくないですよ2


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それに文脈的にも、「人々」と訳すことには正当性がまるでありません。

「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(マタイ24・32-34)

ここで、「いちじくの木」は、「時期を見極めろ」というために引き合いに出されています。
いちじくの枝が柔らかになって、葉が出ると、「ああ、もうすぐ夏だなあ」と分る。それと同じように、「これらのことのすべて」が起こったら、「人の子が戸口にまで近づいている」と悟るべきだ、と。

つまり、ここの個所は、明らかに「時間が切迫している」ということを示すために語られたたとえです。

しかも、この警告は、弟子達に与えられました。

ということは、この文脈は、「イエスが目の前にいる弟子たちに『時期が近づいているから前兆によく注意を払い時を見極めよ』とお伝えになった」ということを述べているということになります。

そうなれば、「これらのことが全部起こってしまうまでは、このゲネアは過ぎ去りません。」の「ゲネア」の意味はおのずから、「時代」だと分かります。

つまり、「遠い先のことではなく、この時代が終わらぬうちに、これらのことが全部起こってしまうから気をつけよ。」と解釈すべきなのです。

「民族」とか「ユダヤ人」とかと解釈すると、文章に一貫性がなくなります。

 

 

2004年4月8日

 

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