デモクラシーを完全否定してよいのか?


セブンスデーの人はどうやら反デモクラシーのようだ。

聖書的民主主義など存在しない、とすら言う。プレ・ミレを信じているから、この反民主主義とあわせて、将来クリスチャンが政権を取って、世界をキリスト教によって再編するなどないと考えているようだ。

私は、世俗民主主義は間違っていると思うが、聖書的民主主義は正しいと思う。

なぜならば、「人間は罪人であり、独裁政治や寡頭政治には危険が大きいから」だ。

市場経済において消費者がなぜよいものを安く手に入れられるかと言えば、権威が分散しているからだ。製造業者は、市場の審判を受ける。悪い物を作れば売れないので、淘汰される。良い物を作れば売れるので生き残れる。

市場経済において消費者は王様である。製造業者、商人は僕である。サービスを提供するものが王座につけば、「悪いものが高く売られる」ことになる。ソ連のように。

しかし、もし本当に日本が完全自由競争の体制にすれば、国境も何も関係なくなり、労働も資本も自由に日本に入り、世界の中において一番よいものが一番安く手に入るのである。

政府が人為的に国内業者を保護することによって、消費者の王権は部分的に奪われているのである。

昔、授業で、銭湯やタクシーなどの公共料金は、市場に任せておくと勝手に高くなって市民の手が届かないものになっては困るので、政府の価格決定が許されていると習った記憶があるが、しかし、政府が価格決定に口をはさんでいるものは、むしろ市場の基準よりも高いことが明らかになっているではないか。タクシーを全自由化すれば、今のタクシー業界は困るだろうが、利用者は非常に助かる。安くてよいサービスを受けられるからだ。

政府が統制を取ればうまくいく、という発想は捨てて、「政府とは所詮人間の集まりなのだから、価格についてまで口を出させると、市場そのものをスポイルする」ということを自覚しよう。

政治でも経済でも何でもそうだが、チェックが多ければ多いほどよい。

一人または少数の人が支配者を決定するのではなく、権力を分散して市民に選挙権を与えるほうがチェックは聞くのである。

だから民主主義を徹底否定することはできない。

ただ問題は、誰でも彼でも一票を分け与えると、「ホモの結婚を求めよ」というような倒錯がはびこる恐れがあり、その世俗思想がキリスト教を否定し、神とキリストを世界の王座から引き摺り下ろす恐れが十分にあるからだ。

セブンスデーは、プレ・ミレらしく、政治などについて聖書は何も言っていない、というが、聖書の基本は「地を従えよ」であり、御民が政治も支配すべきだ、ということである。

イエスは「柔和な者が地を相続する」と言われた。もちろん、「地を相続する」とは、「この地上の王となる」と同義である。

この世界の正当な支配者は、「堕落前のアダム」であり、「柔和なもの」と呼ばれるクリスチャンであるということが分かる。

もしそうであれば、選挙制度が普通選挙でよいはずはない。普通選挙は、思想信条財産性別関係ないからだ。

普通選挙を認めれば、聖書的政治が生まれたとしても、容易にひっくり返される。

聖書的政治は、必然的に選挙権は聖書の教えを疑わない人のみに与えるべきと主張する。

つまり、ある意味の限定的民主主義が聖書的政治ではないかと思う。

 

 

2004年3月23日

 

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