プレテリズムの聖書解釈2


3)エペソ1:3〜14(「時がついに満ちて」はいつのことでしょうか?)

該当個所は次のとおり。

「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。
」(エペソ1・7-11)

この文脈は、

「私たちは、神の豊かな恵みによって罪の赦しを受け、みこころの奥義を学んでいる。これは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることである。」

          ↓

「今、時がついに満ちたため、この計画が実行に移され、私たちは今、罪の赦しと奥義を得、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められ、私たちは御国を受け継ぐ者ともなった。」

というものです。

ということは、「時がついに満ちて」は、パウロが語っている「今」です。

つまり、紀元1世紀です。

この時、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められたのです。

けっして我々が考えるような「終末」において実現することではなく、すでに紀元1世紀に、万物はキリストのものとなり、全世界はキリストの御国になったのです。

この聖書個所から、千年王国を未来のこととすることはできません。

聖書は一貫して、紀元1世紀に、キリストが十字架で死に、復活し、昇天された時に、世界は回復したと述べています。

しかし、ある人はこう言うでしょう。

「え〜っ?世界はすでにキリストの御国になった?それじゃあ、どうして今こんなに戦争やテロや悲惨な出来事が絶えないのか。これでもキリストが王なのか?」と。

聖書の中において、世界が瞬時に変わると書いてある個所はありません。

世界は、徐々にキリストの王国らしくなるのです。

「法的に」はすでに世界はキリストの王国です。

しかし、「実際的に」は、そうではありません。

実際的にもそうなるには、時間が必要です。

「宣教の愚かさによって福音伝道は進む」のです。

再臨の一挙の変革によって世界が変わるのではなく、宣教と教育による活動によって漸進的に変わって行くのです。


4)第一テサロニケ4:13〜18(既にここで携挙が終わっているなら「生き残っている私たち」(当時でなく現在の私たち)は携挙されないのでしょうか?)

該当個所は次のとおり。

「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
」(1テサロニケ4・13-17)

一般に、パーシャル・プレテリストは、携挙がすでに終わったとは考えません。
フル・プレテリストは、携挙は、紀元70年までに起こったと考えます。しかし同時に、携挙はクリスチャンの肉体的死とともに、歴史全体を通じて起こるともいうフル・プレテリストもいます。
彼らは、我々が死ねば、その時に携挙は起こると主張します。

5)第二テサロニケ1:7〜10(「そのとき」「その日」はいつのことでしょうか?)

該当個所は次のとおり。

「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。」

紀元70年の来臨でしょう。

6)第二ペテロ1:19(これはAD70年のことでしょうか?)

「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」(2ペテロ1・19)

そうですね。
神殿崩壊と、それに続く千年王国の正式な到来により、夜明けがやってきます。紀元70年以降の世界は、キリストに逆らう人々が一掃され、正義が支配する新天新地と言われています(3・13)。

こう言うと、「え〜っ?紀元70年を過ぎても、ただイスラエルがローマ軍によって滅ぼされただけで、正義が支配する世界にはなっていないでしょう。どうしてこれが新天新地なんですか?」と聞く人がいるでしょう。

しかし、事実、当時ペテロらをあざけっていたユダヤ人は、エルサレムの陥落において一掃され、裁きは実行に移されました。ユダヤは滅びました。

そして、まったく異なる原理に基づく世界、もはやユダヤ人であるかないかに関係なく、主イエスを告白する人々がすべて神の民となり、霊的に復活し、救いに与かる世界が到来しました。

福音伝道に伴ってサタンは各地から追い出され、伝道者、クリスチャンは、サタンの頭を踏み砕くようになりました。世界は徐々にキリストの御国に変わっていきました。

私たちが今住んでいる世界は、このような「新天新地」なのです。
キリストが王として世界に君臨しておられ、私たちクリスチャンに全権を与えてくれたので、私たちは、サタンに勝利し、サタンを追い出すことができます。しかし、これは、イザヤが預言した「死ぬ人がいる新天新地」です。

千年王国が進展し、諸民族が弟子となり、世界全体が回復・復活したら、最後にキリストの再臨があり、世界は文字通り完成します。その時に、「もはや死がない新天新地」が到来します。

律法において聖めは、2段階必要でした。3日半目の聖めと、7日目の聖めが必要でした。

歴史も同じように、2段階の聖めが必要です。第1段階は、イスラエルへの裁きによる聖めであり、第2段階は、世界全体に対する裁きによる聖めです。

 

 

2004年10月20日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp