マキアベリズムは非聖書的か2


聖書を信じると、会社経営、国家経営はうまくいかないのではないか、という懸念は当然のことながら起きてくる。

なぜならば、この世界は「きれいごと」ではすまないからだ。

しかし、考えてもらいたい。

聖書を信じる国民が、その他の宗教や信条を信じる国民よりも、歴史上商売や政治において成功してきたのはなぜだろう。

ユダヤ人は生活の細部に至るまで聖書によって拘束されている。その倫理基準はキリスト教以上に厳格である。しかし、ユダヤ人は世界で最も成功した民族である。

「いやぁ。成功したのは、どこかでごまかしがあったからだろう」というかもしれないが、ごまかしだけでこれだけの成功を収めることができるだろうか。

各分野の祖と呼ばれる人にユダヤ人が名を連ねているのはなぜだろう。

コンピュータの祖ノイマン、ロケットの祖フォン・ブラウン、パーソナル・コンピュータソフトの世界で圧倒的な地位を占めるマイクロソフトのビル・ゲイツ…。

キリスト教は当然のことながら、近代世界を主導してきた欧米諸国の宗教である。

キリスト教文化圏に属する諸国の富とその他の世界の富との総量は、比較にならないくらいの差がある。キリスト教の中でも、とくに律法を守ることを尊ぶカルヴァン主義の諸国は、他の教派の国よりも経済的に豊かである。

なぜ「きれいごと」ではすまない世界において、「きれいごと」を説く宗教の民族が最も成功したのか。それも、特に「きれいごと」にこだわるユダヤ教やカルヴァン主義者の国が成功したのか。

カルヴァン主義者の成功は、マックス・ウェーバーの問題意識でもあり、ウェーバーは「カルヴァン主義者は救いに選ばれていることに確信がなく、選びを確実にするために労働にいそしんだ」というのだが、実際にカルヴァン主義者は「選びの確信がなかった」ということを証明できない。実際にカルヴァン主義者の教会の人々を見れば分かるが、彼らはけっして自分の選びについて不安視していない。

私は、カルヴァン主義者の経済的成功の鍵は、「律法へのこだわり」にあったと考える。

カルヴァン主義は、「人間は信仰のみによって救われる」と考える。しかし、同時に、「救われた人間は律法という神の規範に従って生活すべきである」と説く。

社会生活、とくに経済的生活において、律法は非常に重要である。ウソを当然とする社会において経済は立ち行かない。商取引において信用は重要な要素である以上、「言葉」へのこだわりがない集団は早晩崩壊する。日本において、社会人になると、「自分の言葉に責任を持つ」ということを訓練される。
言葉に責任を持たない人間は一緒に仕事ができない人間として排除される。

私がつきあった貿易商のほとんどが「肌の黒い連中は信用できない」という。これは人種差別の意味ではなく、体験上、黒人と商売はできないということを学んだからだ。

まだ黒人が日本にいなかったころ、彼らは「肌の色で差別してはならない」と考え、黒人を歓迎していた。しかし、商売をやっていくうちに次第に彼らが言葉に関して訓練されていないことに気付いた。アフリカ諸国に車を輸出していたあるディーラーは、奴らは2度までは金を払うが、3度目に裏切るから注意しろ、といった。

これは、世界中で手広く商売をやっている友人のパキスタン人も同じことを言っていた。

もちろん、これは経験則であって、人種差別の根拠としてはならないし、「黒人と商売するな」というつもりはまったくない。

ロシアにおけるユダヤ人がなぜ成功したのか、と言えば、一つにユダヤ人は言葉を大切にするからである。十戒において「偽証罪」は重罪である。「神の名をみだりに唱えるな」とう第三戒も言葉に関する規定である。

納期を守る、契約を守る、こういった基本的な作法ができない人は信用を失って、ついに客は離れる。だから、言葉を大切にしない国民は、長期的に見て、貧しくなるのである。

律法にこだわる2つの文化――ユダヤとカルヴァン主義キリスト教――が、なぜ経済的成功を収めたかを考えるときに、一つの教訓を学ぶことができる。

つまり、「きれいごと」ではすまない世界においても、やはり「きれいごと」は基本である、ということである。

規範を捨てる民族は、長い目で見て、その負の果実を刈り取るのである。

「わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。
それをいつも、あなたの心に結び、あなたの首の回りに結びつけよ。
これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。
命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。」(箴言6・20-23)

 

 

2004年4月29日

 

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