改革派は、ポスト・ミレに返るべきだ


改革派の中でポスト・ミレを亜流と見る見方が支配的だ。宗教改革者たちは、ア・ミレであったと。
http://www.mountainretreatorg.net/eschatology/reformedescha.html

しかし、カルヴァンは、ポスト・ミレだった。カルヴァン著ジュネーブ教理問答を見よ。


第268-270項:

問:御国の到来のためにあなたはどのように祈るべきか。

答:我々は次のように祈るべきである。すなわち、主が日増しに信じる者の数を増やし、毎日恵みの賜物を彼らの上に注ぎ、ついに、主が彼らを完全に満たしてくださるように。主が、その真理をますます明るく照り輝かせてくださるように。主が御自身の正義を明らかにし、サタンと彼の国の暗やみを混乱に陥らせ、すべての不義を消し去り、破壊してくださるように、と。

問:このことは今日すでに起こっているのだろうか。

答:しかり。部分的には。しかし、我々は、それがたえず成長しつづけ、発展し、ついには、裁きの日において完成に至るように願わねばならない。その日には、神お一人が高き所において支配され、すべての被造物はその威光の前にひれ伏すだろう。彼がすべてにおいてすべてとなられるだろう。(第1コリント15・28)

この解説をされた渡辺師は次のように言われる。

御国は、日本語の語感と異なり、支配と訳すこともできる。むしろ、そちらの意味をより強く含む(中略)即ち、教会が前進し、信仰者の数が増し加わり、御霊の賜物が増し加わって行き、遂に御国が来る。逆の面から言えば、サタンの支配が日に日に退く。不義は義に打ち勝たれて行く。(中略)決して完成には至らないのであるが、しかし、完成に向けての努力は怠らない。神の国は始まっている。(中略)イエス・キリストの来臨によって、福音の支配のもとに明らかな形を取って来た。(中略)始まったことは完成に向けて方向着けられている。(引用」1コリント15:25・28)

このカルヴァン主義ポスト・ミレは、宣教活動となって結実した。

カルヴァンは、御国は歴史において発展しなければならないと考えていた。また、その発展を実現するのはクリスチャンの責任であると考えていた。チャールズ・チェイニーは、このようなカルヴァンのポスト・ミレ終末論の見解こそ、カルヴァン主義者を海外宣教に駆り立てた主動因であると述べている(Charles L. Chaney, "The Missionary Dynamic in the Theology of John Calvin," Reformed Review 17 (Holland: 1964) pp. 24-38.)。
http://www.millnm.net/qanda/calvn.htm

宣教にイルミナティが関与する前の時代において、宣教活動において、圧倒的にポスト・ミレ終末論が支配的だった。

改革派のミスは、ア・ミレが宗教改革者において優勢であったと考える点にある。

彼らは、アウグスチヌスですらア・ミレであったと言う。
http://www.mountainretreatorg.net/eschatology/reformedescha.html

しかし、ローレイン・ベットナーによると、アウグスチヌスは代表的ポスト・ミレであった。

ポスト・ミレニアリストの中で第一に上げるべきは、大アウグスチヌスであった。彼の際立って健全な聖書解釈は、千年もの間、教会の標準となった。
http://gospelpedlar.com/articles/Last%20Things/Postmill_Boettner/b.html

改革派は、始祖カルヴァンのポスト・ミレに返るべきだ。ポスト・ミレ以外の教えでは、徐々に尻すぼみになって最後には消えてしまうだろう。

 

 

2010年8月19日

 

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