安易に人の説を批判しないほうがよい


(1)
これまで私の主張は多くの摩擦を生み出してきた。

ある教会の牧師は私の教育説を極端と述べ、私の律法説を危険な教えと称した。

さて、その牧師は今どうしているだろうか。なんと、その息子が私が主張していたホームスクーリングを実践しているではないか。

また、私が主張した律法説(セオノミー)は、今やメシアニック・ジューの先生などを通じて一般のキリスト教雑誌に掲載されている。

何年か前にある主要雑誌の編集長と会って話したところ、「あなたの考えに問題はまったくない、当たり前ですよ。そんなことで追い出すというのはおかしいですね。」と言った。

そう、私が述べたことは、時代よりも先行しているから、極端に見えるだけなのだ。

言っていることはしごく当たり前のこと。

私は奇をてらおうとしているのではない。ただ、真理とは何かということを知り、そして、人々が気づかない問題の奥深くにある本当の病根を探ってそれを白日のもとにさらけだし、人々に解決を訴えることにのみ関心がある。

(2)
この働きにおいて、日猶同祖論問題には当初反対が多かった。

しかし、現在では、多くの牧師や教師らがそれを唱えはじめている。

いずれ知らず知らずのうちに私がかつて唱えていたことが当たり前のことのように広まっていることだろう。

天皇を嫌うクリスチャンは伝道において損をしている。

なぜならば、天皇は日本の象徴だからだ。

歴史も知らずに、単なる戦前戦中の極端な人間崇拝を根拠に天皇制を拒否することは間違いである。

天皇制の成立の基本には秦氏の存在がある。

秦氏は、日本の神道の中心的存在であり、広隆寺を建て、その弥勒菩薩像は有名である。弥勒とは、西方の宗教に起源をもち、それは、マイトレーヤー、すなわち、メシア、キリストを表す。

秦氏は、天皇の近くにおり、その儀式を作った人々と考えられる。

さて、天皇の即位の儀式は、バプテスマと聖餐と献身のキリスト教の3つの儀式と酷似している。天皇は湯帷子を着て浴槽の中に入り、それを脱ぎ捨て、新しい湯帷子を着て出てくる。そして、天照大神の御前で食事をされ、その後、傾斜のついた畳の台の上に寝られる。

どうしてこんなにキリスト教的なのだろうか。なぜならば、秦氏の宗教がキリスト教だからだ。

飛鳥昭雄氏によると、天皇とは間違った呼び名であり、本当は天皇陛下でワンセットらしい。

天皇とは雲の上におり、我々が天皇という人は、天皇の陛下(つまり、階の下)において仕える人だというのである。

雲の上の天皇とは、すなわち、天照大神、つまり、キリストである。

(天照大神の物語がキリスト復活の物語と酷似していることは他のページで説明しているから参照されたし。)

天皇とは、キリストの下にいて、日本統治を委ねられた人というのがその意味らしい。

私は、日本の伝道において、天皇制を敵視してはやっていけないと考える。天皇制は、日本の根幹である。

そして、それは、反キリストではなく、むしろ、親キリストなのである。

このような私のかねてからの主張に対して、多くの人々が批判し、私のもとを去って行った。

しかし、今や、イスラエルの公的機関の人々が日本に来て、日本人がユダヤの失われた部族でないかと本格的に調査している。

安易に人の説を批判しないほうがよい。

 

 

2007年2月22日

 

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