日本教的キリスト教


>もう既に「日本宗教」的キリスト教は出来上がってしまっている
>と思います。
>数年前に、ある神主さんが、「お正月と七五三はお宮参り、クリ
>スマスは教会、お葬式は仏教で・・・こういった宗教的寛容さが、
>日本人の良いところだと思います。」と言った新聞記事がありました。
>宗教的寛容ではなく宗教的無秩序・無節操なのではないでしょうか。
>それが根底にあるから「何でもあり」になってしまう。
>本質を見極めようとしないで、「まあまあ、良いじゃないですか?」で
>終わってしまう。
>すぐに「**ブーム」の線香花火があちらこちらに一つ、また一つ・・・
>宗教的無節操の結末は、列王記・歴代誌の通りです。
>「目を覚まして祈っていなさい。」(マタイ26:41)
>私たち再建主義クリスチャンが、角笛を吹いて民の目を覚まさないと、
>この先とんでもない事になっているのではないか、と危惧します。

たしかに、本質を見極めようとしないで、「まあまあ、良いじゃないですか?」で終わるというのは日本人に共通する欠点だと思います。こういう態度からは科学も市民的権利も生まれません。

一見すると、「和気藹々」で、教会の中はうまく収まっているように見えますが、真理を二の次にするので次第に祝福から遠ざかります。

私のこれまでの経験から言うと、日本人の集団は結局、誰かの個人崇拝に行き着かざるをえないのであり、個人個人が個性をぶつけあって高みを目指すというのではなく、教祖のようになった牧師なり社長なりを中心として、異論を出させない雰囲気を「和を尊ぶ」という大義名分のもとに作り上げて、結局、新興宗教にしてしまう傾向があるのではないか、と思います。

これは自我を健全に育てる教育が行われてこなかったからでしょう。

日本の学校では、ディベートの時間がありません。ディベートができる人間は日本の社会では必要ないからです。

トップは、議論をする人間を脅威に感じて排除しようとします。

最近、戦後強い個性の牧師や社長が作り上げた教会や会社がどんどん潰れているのは、結局、こういったカリスマ崇拝体制が間違っていることが証明されているからと思います。

私は、「カリスマではなく真理を中心とする」という正当な方法を採用しない限り健全な集団は日本にはできないと考えています。

クリスチャンの会社でも、社長が社員の趣味から考え方のあらゆる部分に干渉する傾向があるのを見てきました。

「まあまあ、良いじゃないですか?」という言葉のうらには、「自分と他者の未分化」という幼児的な文化の背景があると思います。

 

 

2004年5月19日

 

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