俗物には日本文化は理解できない


(1)
北陸に出張の帰り、京都に寄ってきた。

比叡山の延暦寺は、信長の襲撃でほとんど全焼したという。山頂に逃げた僧侶数千人を焼き殺したそうだ。

この信長という男はバカである。

たとえ仏教とはいえ、宗教に携わる人間、僧侶や牧師、伝道師を殺したり、迫害したり、騙す人間にどのような裁きが下るか理解できないから。

宗教人を迫害する人間は、俗物であり、野蛮人である。

信長は10年後に、皮肉なことに寺院で自殺に追い込まれた。

寺院を破壊する者は、寺院に破壊される。

物しか信用できない人間は、物に裏切られる。

世界は物によって動いているのではなく、思想によって動いている。

金とか物は、世界を支配できない。

例えば、巨大な軍隊を持っている国が世界を支配できるのは、軍隊が巨大だからではない。

その軍隊を動かす思想が充実しているからだ。

もし軍隊を動かす思想に不備があれば、軍隊は瓦解し、内乱が起こる。

どんなに強い兵器を所持していても、それを使う側において不備があれば、利用できない。例えば、教育に不備があり、そういう兵器を扱えなければ何もならない。

建築物がコンクリートや鉄骨や木材だけでできていると考える人間は愚か者だ。

建築物ができるには、設計者や計画者の中に明確なビジョンが確立していなければならない。また、建築に必要な知識や技術も大切だ。

目に見えるものは、目に見えないものによって支えられており、両者が揃わないと物事は進まない。

だから、思想を軽視する国民はバカなのだ。

思想を扱う職業人を軽視する国民はバカだ。

教育を軽視する国民は、早晩没落する。

(2)
聖書において、「御言葉」は「両刃の剣」と表現されている。

両刃の剣とは、自分も相手も傷つけるものだ。

間違って用いると敵を倒すのではなく、自分を倒してしまう。

御言葉は、最高の破壊力を持つ。

御言葉を語る人間は、下手をすると自分を傷つける。だから、御言葉をみだりに利用してはならない。

御言葉を説教する人間、それを説明する人間、それを布教する人間に対して攻撃するならば、その攻撃が自分に返ってくることを覚悟しなさい。

両刃の剣は、自分にも向いている。

(3)
京都を巡って気づいたのは、教会の多さである。

いたるところに教会がある。

京都といえば仏教のイメージだが、実際は、キリスト教の香りのただよう町である。

そもそも、京都を作ったのは、原始キリスト教徒と言われる秦氏だ。

町は奴・人・十字架の形に作られた。

秦氏は、日本が本当はキリスト教の国、イエス・キリストの国であるという事実を巧妙に隠した。

秦氏の中の秦氏である賀茂氏及び八咫烏の本拠地ともいえる下鴨神社(賀茂御祖神社)に行って、その感を強くした。普通の神社とは格が違う。高貴で、聖い雰囲気が漂っている。

参道は、糺(ただす)の森という。糺すとは、悔い改める、懺悔の意味。

参拝の前に自分の罪を悔い改めることを促して名づけられたのか。

物だけを信じる野蛮な人間は、京都の裏にあるキリスト教を理解できない。

表だけを見ていては日本という国は理解できない。

日本文化の特質は、表と裏がセットになって成立しているということである。

だから、表のもの、つまり現象の世界だけを追いかける科学では、日本は理解できないのだ。

伊勢神宮の灯篭にダビデの紋が刻まれていることについて、伊勢神宮の公式見解だけを信じているようでは、まだまだ。

どうして伊勢神宮が「はい。これはユダヤと関係があります」などと軽々に認めるか?

日本の文化の卓越さは、裏にこそある。

秦氏の寺、広隆寺の本尊は弥勒である。弥勒は、メレク、王、メシアから来る。表面は仏教だが、内実はキリスト教。

日本を仏教の国と考えている人々は、まったく日本が分かっていない。

 

 

2008年4月5日

 

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