ものそのものは汚れていない2


ものそのものは汚れていない。

「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。」(ローマ14・14)

すべてはキリストの血によって聖められた。

しかし、それでは、万物はもはや裁きも贖いもまったく必要としない状態になったのか、という疑問が起きるだろう。

新神学は、ノンクリスチャンもすでに聖められているという。信仰がなくても、すでに聖いという。

しかし、イエス・キリストは、はっきりと「わたしによらずに父のみもとに行くことはできない」と言われた。

パウロは、「心に信じて義とされ、口で告白して救われる」と言った。

ということは、心で信じず、口で告白もしない人は救われず、それゆえに、神の目に聖くないということになる。

パウロはローマ14・14の続きで次のように述べている。

「ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。」

問題は、人間の心にあるということが分かる。

自分の判断において「汚れている」と考えているものは、「自分にとって」汚れているのだ。

酒たばこを汚れたものと見るクリスチャンが多い。

私は酒もたばこもやらないが、聖書から酒そのものやたばこそのものは汚れていないと思う。

これはモルヒネと同じだ。モルヒネそのものは悪くない。鎮痛のために医者が処方する場合に有益である。しかし、快楽のために使うと自分の体を滅ぼすことになる。

酒そのもの、たばこそのものは、神が創造されたものである以上、善用が可能だ。

しかし、酒とたばこについて罪悪感を持っている人にとってそれは汚れている。

だから、確信のないままに周りの人に流されたりしてそういったものを「罪悪感を伴いながら」飲んでいる人は罪を犯しているということになる。

ここに、クリスチャンの自由と束縛の原理がある。

クリスチャンにとってすべては聖い。しかし、心次第で汚れたものが出てくる。

神と無関係に接するものはすべて汚れている。

神の栄光のためにしないことは汚れている。

神の主権を認めないものは汚れている。

人の信仰のつまづきとなるものは汚れている。

これらによって我々は汚れることがあるので、悔い改めと赦しを必要としている。

セオノミー以外のすべての信仰は、神とは無関係に存在する領域があると主張し、汚れを汚れとして認めないがゆえに間違った信仰である。

聖書は「飲むにも食べるにも何をするにも神の栄光のためにしなさい」と教えている。

ノンクリスチャンは、神のためにまったく行動しないので、彼の接するもの、作り出すものはすべて「彼自身にとって」汚れている。

ノンクリスチャンのもので汚れていないものは何一つない。

「汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。」(テトス1・15)

「えっ、ではクリスチャンはまったくノンクリスチャンの作り出したものを利用できないのか?」と言うかもしれない。

ノンクリスチャンが作り出したものでも、クリスチャンが神の栄光と主権のために用いれば「聖められる」のである。

要するに、心の問題なのだ。

クリスチャンが作ったものでも、ノンクリスチャンが作ったものでも、自分が神の主権を認めて、神の国の国民として行動することによって、すべては聖められる。

ノンクリスチャンのコックが作った料理は、彼自身にとって汚れており、それを神の御前に捧げることはできないが、クリスチャンが祈ってそれを感謝して受けるときに聖められる。

ノンクリスチャンのコックが死後、いかに「神様、私はこんなに素晴らしい料理を作り、仕事をしたではないですか!」と叫んでも、それらは神の為に行わなかったのであるから、汚れており、功徳にはならない。

しかし、クリスチャンが神のためにそれを食したときに、それは聖められたのであるから、永遠に残る報酬となる。

すべてを神中心の秩序の中でとらえることである。

すべてを御国の一部としてとらえることである。

それ以外のものとしてとらえると汚れてしまい、報いとして残らない。

 

 

2005年2月20日

 

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