存在論的に多、契約的に一 10


<Perter様>

いつもご返事くださり、ありがとうございます。また面白い(批判者による)投稿があります。リーによると、キリストとして受肉した神は、単にキリストにとどまらず、受肉を拡大しているということのようです。つまりサタンの受肉からキリストの受肉へと変えることが、教会の拡大ということのようです。それが一行政区にひとつの正統な教会として現れると・・・。う〜ん。


------------------------------

245 :名無しさん@3周年:2006/04/14(金) 21:00:36 ID:Yn62o3jY
あのね、くまちゃん、私がリー師の"The Economy of God"を読んで疑問を覚えたのは、最後の方の"The Church&#8212;God Manifested in the Flesh"。
「教会−肉において出現した神」ですから。
聖句のテモテ前書3章16節「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。
『キリスト(写本によっては、神)は肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。』」
とあるとおり、肉において現れた神はキリストなんですけどね。
普通は教会(召された者たち)が信徒の集合体・共同体と認めつつ、
「教会を通して神の栄光が現れる」
といった表現はしますね。あるいは「私たちが神の徳を表わすように」とか。
しかしリー師は、「教会は神の受肉の拡大」だと言っているわけです。
もっと正確には、「教会はキリストの拡張だ」と言うことのようです。
「ミングリング」による「神化」の結果でしょう。

上の紹介リンクからの原文を引用しておきます:(【】は私による)
This Church is 【the continuation and the multiplication of “God manifest in the flesh.”】
This is the reason why the Apostle Paul put these two verses together. The manifestation of
God in the flesh has very much to do with the Church being the house of God and the pillar
and ground of truth. When we are the living Body of Christ in a certain place, we are really
the house of God and the pillar and ground of reality. We are then the increase, the enlargement,
【of the manifestation of God in the flesh】.【 God manifests Himself again in the flesh, but in a wider way.】
The principle of the New Testament is the principle of the incarnation, which simply is:
【God Himself manifest in the flesh.】 In other words, God is mingled with human beings&#8212;not in an outward way,
but in an inward way.
(The Economy of God by Witness Lee, Chap 23.)

248 :名無しさん@3周年:2006/04/14(金) 21:09:09 ID:Yn62o3jY
サタンが人間に受肉したように、神もキリストにおいてだけでなく、
私たちにおいても受肉することを言っているのでしょう。
もしそうだとすると、御子の受肉の独自性を否定してしまいますね。
もっと言えば、オセロゲームのように、人類というマス目において、
白(神の受肉)と黒(サタンの受肉)のせめぎ合いをしているような。
サタンの受肉で肉化した人類は、最初全部黒だったわけですが、
神の受肉キリストひとりから始まって、サタンの受肉の領域を白化(教会化)して、
神の受肉の領域を拡大すると、なんだかそんなイメージが浮かんできましたね。

--------------------------------------

<tomi>

これも、存在論的一致と契約的一致の混同から起きた間違いです。

キリストと教会は一体ですが、それは、存在論的な一致ではなく、契約的一致です。

存在論的一致ならば、教会も神となるということにどうしてもなります。

となれば、教会は崇拝の対象となる。

しかし、聖書では、教会を神格化することが禁止されています。

使徒たちは、自分たちが礼拝されると、わざと民衆の中に入っていって、「やめてください。私たちもあなたたちと同じです。」と叫びました。

存在論的な一致をとく汎神論は、神と人間の区別があいまいです。

しかし、キリスト教は、この点において非常に厳しい区別をします。

ミングリングなんてありません。

契約的一致とは、混合ではありません。

それは、存在論的他者でありながら、約束によって一致することです。

それゆえ、教会は礼拝の対象になりません。

 

 

2006年4月15日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp