いじめられたら反撃せよ


私は、小学生の一番最初の頃、一度だけいじめにあったことがある。しかし、その次の時にそのいじめっ子に会ったときに逆に反撃すると、彼は二度といじめなくなった。

それ以来、いじめにあって反撃しないと、ずるずるいじめられるということを悟った。

いじめる人間やヤクザなどは、自分よりも強い人間と喧嘩しない。

自分の利益にならないことはやらない。

だから、いじめに対する最大の防御は、いじめという行為に伴う不利益を相手に示すことである。

「俺をいじめるとこういう目に会うぞ」と示すことである。

たとえ自分に腕力がなくてもいい。

むこうが腕力でやってきたので、自分もそれで対抗しようとする必要はない。

どんな方法でもよいから、相手に反撃することである。いやみを言う、馬鹿にする、嫌がらせをする、教師に訴える、教師や親を使って相手の親に文句をいわせる、法律に訴える。

そんなことをしたら翌日から学校で何をされるかわからない?

それじゃあ、学校に行って暴力をふるわれないように、誰か腕力のある友人を連れて行くとか、教師にすぐに訴えて、大事にするとか、何とでもなるだろう。

とにかく、黙って泣き寝入りしたらだめだ!

いじめっ子にサタンが憑依して、死ぬまで追い詰められるから。

「えっ、クリスチャンは右の頬を向けたら左の頬も向けよという命令に従うのではないですか?」と聞くだろうか?

じゃあ、その人に聞こう。

「神は、なぜ人間に防衛本能をお与えになったのか。なぜ人間の体の中には免疫のシステムがあるのか。」

このような防衛のシステムを我々の体に組み込まれた神が、自分を攻撃する者に対して無防備になれ、なんて言うわけがないでしょう。

「防衛」と「復讐」を混同すべきではない。

我々は攻撃する人間に対してこちらでできるだけの防衛をして、自分の健康や命や精神的安定を守るべきである。

しかし、相手に害を与えて、自分の復讐心を満足させようとしてはならない。

これについては、神に委ねるべきだ。

我々ができることは、我々を痛めつけると、自分も害を被ることを相手に知らしめることである。

それ以上のことは、神がなさる。

問題があまりにも複雑になりすぎて、その集団にいられなくなったら、どうすべきか。そこから出ればよい。

神は、必ず新しい場所を用意してくださる。

自殺は、神が用意してくださる逃げ道を自分でふさぐことであり、それゆえ、「責任放棄」として処罰されるから絶対にやってはならない。

生まれてきたということは、仕事であり、責任なので、自殺は、自分の決断で自分の運命を決することを望むことであり、神のライバルであるサタンと同じ罪を犯したと見なされて、地獄で永遠を送ることになる。

 

 

2006年11月10日

 

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