無償の愛は聖書的ではない6


キリスト教が法を捨てた結果、賞罰も捨てた。

その結果が「無償の愛」の教理だ。

この無償の愛の教理によって、人間関係は混沌化する。

ギブ・アンド・テイクという人間関係の基本的な関係が崩れる。

ギブ・アンド・ギブまたはテイク・アンド・テイクが横行する。

福音伝道は、当然のことながら報酬を要求できる。

しかし、クリスチャンは、福音は無料で行うべきだ、報酬を求めずに行うべきだと考えているので、牧師などを招聘して講演料を払わないという無法が横行している。

ある教会で通訳として3日間働いた。外国まで行って。最後にそこの牧師が「私は、他の教会に行って奉仕をする場合に奉仕料はもらわないことにしているんですよ」と言った。

奉仕料をもらわない代わりに彼は教会から俸給をもらっている。

しかし、私は誰からももらわない。ということは、私を利用したということになる。

そう。このように、今の教会、クリスチャンは、人を利用しようとしているのだ。

これが大きな裁きを招かないわけにはいかない。


見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。(ヤコブ5・4)

信徒を奉仕に駆り立てて利用し、不払いをかます牧師がどうして祝福されるだろうか。

牧師を奉仕させて、報酬を払わない信徒がどうして祝福されるだろうか。

こういう自分だけ利益を得ようとするさもしい根性がどうして聖霊と同居できるだろうか。

私は、人を利用する牧師をいろいろ見てきたが、その貪欲さという一点だけ見て、信用するのをやめる。ほかにどんなすばらしいことを語ってもだめ。その一点で、その人の人柄が分かる。

分け与えることを喜ぶのでなければ祝福は絶対にされない。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6・38)

契約の民となったクリスチャンは、分け与えることによってかえって豊かになる権利がある。この権利を行使すべきだ。

 

 

2010年5月22日

 

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