ノンクリスチャンの文化的営為を評価せよ



また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。(マタイ13・47-48)

そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13・52)

御国は、一様ではない。正しい者だけが集まるのではない。悪い人々も集まる。

教会が善人の集まりだなどと考えてはならないのは、サタンが悪人を送り込むからだ。

我々は、このたとえの猟師や一家の主人のように、区別をしなければならない。

よいものと悪いものを区別する目を持たねばならない。

今日は、非常に不愉快なことがあった。

友人から会いたいという人がいるので会ってほしいというので、車で40分かけて行った。今、非常に忙しいので、時間を作るのは難しいのだがわずかな時間ならと出かけた。

その人は外人で、なんだか、娘さんが国学院大学に入り、神道の研究、とくに真名井神社について研究したいという。

私が、神道の中にカバラの影響があると話し出したとたん、「カバラは悪魔からきたのですよ。それをいいというのはおかしい」と言い出した。

私は、「私がカバラがいいとか、信じていると言っているのではなく、カバラが神道に影響を与えたと言っているのだ」と言っても、きかない。

「あなたは、私を呼び出しておいて、文句を言うのですか。人の話を遮って自分の印象で話をするから、お話になりません」と言って席を立って出てきた。

無礼な人間もいるものだ。

人を呼び出して、礼儀もない。むしろ相手を怒らせるようなことをする。

あきれてものが言えない。

彼は、私が紹介した本を詮索して、「これはクリスチャンが書いたものですか?」としきりに聞いてきた。

「いや違いますよ。」と答えた。

「歴史家はノンクリスチャンが多いですよね。だからクリスチャンだけから情報を得ることは難しいです」というと、

「そうとは限らない」という。

「おいおい、頭どうにかしてしまったのか。」と思った。

クリスチャンの著作しか信用しないというなら、なぜ国学院大学などという神道の大学に娘を入れたのか。

首尾一貫していないではないか。

クリスチャンを情報源としなければならないというなら、徹底しろ。

娘をクリスチャンの大学に入れろ。

私は、こういう首尾一貫しないで、自分のポリシーをやたらに振り回す人間が大嫌いだ。

結局、こういう人間は、客観的な基準を設けているように見えて、実は、自分の基準を頑固にもち、それを自分の都合に合わせて使い分けているに過ぎない。

お話にならない。

時間の無駄。

だから、私は人と会うにしても、しっかりと聞く耳のある人間しか会わない。

あと礼儀知らずには会わない。

常識のない人間とあっても、無駄だから。

いい大人になって、礼儀とか常識とかわきまえていない人間など友人にする値もない。

どこかで自分をだまし、自分を中心に周りの人間を振り回すことを何とも思っていないから常識がないのだ。

私の経験から、こういう人間と付き合っても何も利点がない。

振り回され、貴重な時間を無駄にされるのがおちだ。

我々の人間関係とは、ギブ・アンド・テイクである。

よくクリスチャンで誤解している人がいるが、「無償の愛で相手に与えなさい」というのは自分に対する戒めであって、相手に要求するのは単なるずうずうしいやつだ。

この世の人ですら、「何かを受け取るには、何かを払わねばならない」と考えている。

だからこそ、人間関係が円滑に進むのだ。

取るだけとって、与えないなんて人間が信用されるわけがないじゃないか。

愚か者だ。

今日会った人間も、受けるだけしかできない非常識な人間だから、社会で相手にされるわけもない。

何の仕事をしているか知れない不良外人だ。

中年になって、自分に友人がおらず、孤独で、助けてくれる人が誰もいなければ、それは、その人間が、「奪うだけしかしなかった」からだ。

若いうちは、まだ学ぶ時期だが、中年になってまだそれができていなければ、この世界を自分中心に回せると考えている「たんなる馬鹿」である。

もうひとつ、この不良外人のように「この本はノンクリスチャンが書いたので、間違いだ。だから信用できない」というような判断の仕方をしてはならない。

そうであれば、あなたはこの世界から出ていかねばならないだろう。

ノンクリスチャンが作ったものがすべてことごとく違法であり、間違っており、悪霊の影響を受け、学ぶに値しないなら、現代の科学の恩恵を自分の生活からすべて遠ざけよ。

徹底しろ。

我々は、全否定するのではなく、よいものと悪いものを区別する「主人」「猟師」なのだ。

基準は、聖書にある。

聖書の基準にしたがって、受け入れてよいものと悪いものを区別するのだ。

クリスチャンの文化観は、このようでなければならない。

ノンクリスチャンの文化的営為を評価できないクリスチャンは、偽善者である。

感情的に選別するのではなく、もっと聖書的にものを考え、区別を行うべきだ。

 

 

2008年11月10日

 

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