日本の倫理的空洞を埋める原理は日本の伝統のうちにある


なぜ今、君が代、日の丸なのか?

それは、このままだと日本人の倫理は崩壊する、という心配があるからだ。

戦後、教育者たちは、倫理的空白を埋めることができなかった。

マッカーサーは、戦前の教育に対する自己否定を強制したが、それに代わるものを教えなかった。

キリスト教を代替思想として導入する絶好の機会をみすみす逃した。

その結果、何が起こったか?

倫理的空白である。

70年代後半まで左翼思想がそれを補う形で残ったが、中ソ対立、プラハの春、そして、ソ連の崩壊を通じて、マルクス主義が幻想であることが明らかになった。

これで戦後日本は思想的に完全に空洞化した。

「いや、穏健な社会民主主義が残っているでしょう。」というかもしれないが、社民党が衰退していることからも分かるように、「社会主義」という名のつくものすべてに対して人々は拒否反応を起こしている。

年金、福祉などマイルドな社会主義制度も、国の経済を衰退させる元凶と見られるようになっている。

この空洞化を見た保守派の人々が今、国家主義を導入しようとしている。

その現われが日の丸、君が代の強制である。

しかし、残念なことに、19世紀以降の国家主義、民族主義は、もはや時代遅れである。

戦前・戦中の日本ならともかく、今やインターネットによって海外の情報は自由に入り、人々はアメリカやヨーロッパの文化にどっぷりつかっており、海外にも自由に渡航できる時代に、保守派が望むような民族主義は育たないだろう。

しかも、アメリカは、日本の民族主義を黙認することはないだろう。太平洋戦争の目的の一部は、日本をアメリカの世界戦略の重要な拠点とすることにあったのだから。

民族主義が続くと、必ず国際主義が復活する。国際主義が続くと、必ず民族主義が復活する。

どちらも完全に殺すことはできない。

民族主義と国際主義をどのように調和させるかがこれからの課題のように思われる。

民族主義は「血」の原理であり、国際主義は「理性」の原理である。

人間にはこの2つの原理が必要である。

聖書において、民族は非常に重要な概念である。

「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」(使徒17・26)

神は国民(民族)を作られ、それぞれに「時代」と「住まいの境界」を定められた。

キリスト教は、民族の壁を取り去って、万人をコスモポリタンにしようとする宗教ではない。

神の願いは、各民族がその民族の顔を持ちながら、互いに和合して一つとなることである。

だから、聖書が教える国際社会とは、「民族の独自性を維持しつつ、神を唯一の主として集まる一つの群れになること」である。

この「一と多の調和」こそ人類の究極の目的である。

一致とは、北朝鮮のように、国民が「顔なし」になることではない。

オーケストラのように、各楽器が個性をはっきりと持ちながら、一つの調和を生み出すことである。

民族主義も国際主義もどちらも必要である。

人間が究極者とされるヒューマニズムは、このような調和を生み出さない。

国家を究極とする国家主義の原理では、統一だけが優先され、個性はつぶされる。

もはや、国家主義が通用する時代ではない。それは、先の戦争で終わった。

新しい原理は、聖書の中にしかない。

三位一体の神は、一にして多である。

聖書の神において、一も多もどちらも究極である。一が多に優越するのでも、多が一に優越するのでもない。

日本は、この三位一体の原理を古代からずっと持ちつづけてきた恐らく最古の国家であろう。先ごろ出土した古代の出雲大社の大神殿の一本一本の柱は、三本が一つにゆわえられた形になっている。

神道において、柱とは神を象徴する。日本の造化三神は、三つにして一人の神である。

今の保守派は、この事実に気付くべきである。

多神教を主張したり、国家主義的一致を主張する人は、日本の伝統に違反しているのである。

日本の思想的、倫理的空洞を埋める原理は、すでに日本の伝統のうちにあることを認めるべきである。

 

 

2004年8月18日

 

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