「無条件の赦し」はサタンがばら撒いた偽教理である2


何をしても赦される、という教えの中で育った者として、私は、多くの乗り越えなければならない課題と格闘した。

まず、教会において教えられていることと、自分が実際に体験する数々の破局とを調和できなかった。

つまり、現実を見ると、どうしても神は「私の行動を許しておられない」ということが分かった。

これが信仰に入りたての私に容赦なく降りかかった試練であった。

右も左も分からない身である私にとってこれは大きなトラウマとなった。

それ以来、私は、教会の教えが実は間違っているのではないか、それではどのように考えるべきか、悩みに悩みぬいた。

結局、神の道は非常に狭かった。教会は、あたかも広い道があるかのように教えていたが、私にとって選択の余地はあまりにも少なかった。

ディスペンセーショナリズムが教えている次の2点が決定的に間違っているということを私は次第に理解していった。

(1)クリスチャンは何をしても赦され、救われる。
(2)報いは次の世界において起こり、現在においてはない。

違う。


クリスチャンに対して神は厳しい。我々に対する神の基準は高い。

結局、神の主権を認めない行為はことごとく裁かれる、ということを理解した。

たしかに、次のように言われている。


「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(1コリント12・3)

聖霊を受けている本当のクリスチャンは「イエスは主です。」と言えるはずである。

そして、もちろんのことだが、「イエスは主である」ということを行動において示すだろう。

だから、こういうことだ。

クリスチャンになっても、「イエスが主である」ということを告白せず、また、その告白にふさわしい言動がなければ、本当は救われていない、ということだ。

昨今、教会の中がめちゃくちゃになっているという話をよく聞く。

倫理が崩壊しているという話だ。

私は、ずっと友人や知人と礼拝しているから、最近の内部事情は直接は知らないが、間接的にそういうふうに聞いている。

どうしてこうなったのだろうか?

それは、神の裁きがまだ来ていないからというのが一番だろうが、しかし、教職者が、この「イエスの主権を認めない人間はいかにクリスチャンの外面を保っていても、救われない」という事実を伝えていないからではないだろうか。

ある牧師が雑誌において次のように語った。

「しかも、たとえ魂を悪魔に売り渡してしまったり、自殺をしたり、まったく聖書も読まず祈りもせず、教会にも行かず敗北的なクリスチャン生活を送ったとしても、そのキリストにあって頂いた永遠の命は決して失うことはなく天国に行けるのである。」

魂を悪魔に売り渡すということは、サタンを拝み、イエスの主権を認めていないということだから、先のパウロの発言と矛盾する。
しかも、パウロは次のように述べた。

「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(1コリント6・9−10)

そうだ。教職者が間違った理解をしているのだ。

彼らは、「無条件の救い」という謬説を信じ込んだのだ。

パウロは、イエスの主権を認めず、己の欲望のままに歩むクリスチャンを教会から追い出すように求めている。

「私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。
それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。
私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。」(1コリント5・9−11)

この個所を読む限り、悪魔に魂を売り、まったく聖書も読まず祈りもせず、教会にも行かず敗北的なクリスチャン生活を送っているクリスチャンが天国に行けるなどといった解釈はできない。

なぜならば、教会から追い出されるということは、すなわち、死んだら地獄に行くというのと同値であるから。

教会は救いの鍵を握っている。(もちろん、教会が間違っている場合があるから、単純には言えないが。)

わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16・19)

じゃあ、敗北的な生活をしているクリスチャンを冷たく追い出して、フォローしないというのは正しいことだろうか、と訊ねる人がいるだろう。

私は、「追い出す」ということは、「相手を村八分にしていじめる、見捨てる」ということではないということを強調しよう。

教会は、その人が戻ってくるように祈り、愛し、努力すべきである。

疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ・・・なさい。(ユダ22-23)

しかし、愛するということ、イコール、「切らない」ということではない。

肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。(ユダ23)

まとめ:

1.救いの中にいつづけることは無条件ではない。

2.条件はイエスの主権を認めることである。

3.主権を認めない不正行動がある場合、交わりを絶つべきである。

4.しかし、回復するように愛をもって働きかけるべきである。

 

 

2006年8月6日

 

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