字義的解釈と象徴的解釈の区別46


<Q>
石についてですが。石は神殿の主要な材料なので正義をもって裁くとゆう意味だと思うのですが。キリスト以降は我々の体が神殿になったので。我々の体そのものが石になったと思うのですが。石になったので石はもう必要なく。つまり聖霊が石である我々を操る。そして、我々が罪人を処刑にする時は代表者80人ぐらいでそれぞれ各ボタンの前に立って、そのボタンを押すとガスが出てきて処刑にする。一人でも押さないと出てこないようにして。とゆうシステムがいいと思うのですが。又、ローマの時代ならば穴の中に罪人を入れてみんなで土を埋めてしまう、とか。もし我々が石ではないのならキリストの十字架の意味が無く。メシアニック、ジューの言ってる事を肯定すると思うのですが。我々は神殿、石であり裁く神の道具であり。神殿自身が石を手にとって裁く事はイエスに対して反逆する事だと思いますが。動物犠牲と神殿が切り離せないように神殿と石も切り離せないはず。又、我々が神殿だからこそ万民祭司、伝道者として後説的信仰ができると思うのですが。御意見をお願いします。

<A>
神との会見の場所は、神殿の前は幕屋でした。
幕屋は木材と皮と布が材料でしたので、神の裁きと石と直接関係づけることには無理があるでしょう。
石ということに着目する場合には、石がキリストの敵を倒すということに使われていることに注目すべきです。
ガスによる処刑や土で埋めるという方法は、石を受刑者に投げつけるというところにある神の御心を損なう方法でしょう。
神は、石打刑において、神の義、神の御国における社会的秩序とは、構成員が人の命を奪うということによってすら守られねばならないということを我々に教えておられるのだと考えます。
石打刑は神が旧約時代の人々に定められた方法です。それは、野蛮な精神が生み出したものではなく、天地の創造者の御心なのですから、安易に人間が自分の方法を優先すべきではないと考えます。

 

 

2007年2月15日

 

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