迷える羊が増えた本当の理由2


パソコン通信やインターネットをやり始めたころは、意見を出せば、日本全国の人を相手にするわけだから、かなり高度なツッコミを入れてくる人がいるに違いない、と思っていた。

しかし、完全にあてが外れた。

神学に関して専門的な知識を持ち、問題を的確に把握し、意見を交換できる論敵はまったくいなかった。

どこまでが確立した正統派の見解で、どこからが未確定の領域かが分かっている人すらいない。

だから、再建主義批評家なる人間が批判しているのは、既存のありふれた改革主義の見解であることがほとんどなのである。

たとえば、LUKE氏が非難している再建主義の「思想と生活のあらゆる領域に御言葉を適用する」という考え方は、19世紀のアブラハム・カイパーからヘルマン・ドーイウェールト、ヴァン・ティルにいたる「アムステルダム学派」の主張であり、現在の改革主義の弁証論の主流なのである。

また、1ヶ月ほど前に行われた「契約」に関する議論は、もう500年前から確立した理論であって、ぜんぜん新しくもなんともない。

いまさら「律法と福音」「契約神学」について議論する意味はまったくない。議論の中で問題意識が高まり勉強になる、もしくは、今までぼんやりとしていたものが明らかになるということ以外は。

本当に議論として価値があるのは、最先端のものである。

それまでわかっていなかったまったく新しい問題について議論するのを本当の議論という。

だから、専門家は、「今どこまでわかっていて、どこから分からないのか?」ということを見極めるために、研究史について知らなければならないのである。

 

 

2005年12月8日

 

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