自分の理性を基準に置く人間の末路


(1)
先日、TV番組である司会者が芸能界の大物が集まった様子を「これだけ成功者が集まった番組も珍しい」と表現していた。

成功者とは何か?

この司会者によると、成功の基準は「売れているかどうか」ということにある。

売れている=名声と金が手に入る=成功

こういう図式なのだろう。

しかし、聖書は違うという。

名声と金は、サタンでも提供できる。

サタンはイエスの目の前に全世界の国々を見せて、「これらすべてをあなたにあげましょう。」と誘惑した。

名声と金を手に入れても人生において破局を味わう人は枚挙にいとまがない。

何が基準なのだろうか。

聖書である。聖書が「これが成功だ」と言うものが真の成功なのだ。

真の成功とは、「御国建設の進展」である。

神の御支配を地上にどれだけ進展させたかが基準である。

これ以外の基準を聖書は用意していない。

家族を聖書に従って整え、隣人に福音を伝え、教会を栄えさせ、貧困者や孤児を養い、慈善の活動をし、教育を聖書にしたがって行い、聖書にしたがった政治を行い、会社を繁栄させ、富と平和を全世界に広めること、これこそ、御国の前進である。

御国とは、神の法が適用され、それによって繁栄と平和を享受できる領域である。

これに対してどれくらいの貢献ができたか、それが、成功か不成功かの境目である。

この基準を失うことによって、その人の人生は不毛になる。

どれだけ金を稼いだとしても、名声や勲章を手に入れたとしても、神の目からはその人生はクズである。

神の審判に耐えられない人生は、不毛の人生である。

その人は人生の失敗者である。

(2)
私がある時「瞬間移動できると公言する牧師がいる」と投稿したところ、家族から攻撃された。

「そんなこととてもじゃないが信じられない。」と。

私が「いや、聖書には瞬間移動した人々が書かれてあるから。。。」と言うと、答える隙を与えずに、

「いや、そんなことは聖書の時代にはあったかもしれないが、今は時代が違うので、信じられない」というので、

「聖書の中に時代が変われば聖書に起こったことが反復されない、と述べた個所はない」というと、

「常識では考えられないことを言うな」と言われた。

これは、不信仰である。

基準が自分の常識に置かれているからである。

自分の常識が基準であるならば、信者一人一人信仰の内容が異なってもよいということになる。

ある人は、イエスの処女降誕は○、イエスがサタンの誘惑の中で見せた宮のいただきへの瞬間移動は×、イエスの病人への奇跡は○・・・

こんな選択が許されるのは、リベラリズムという名の異端のグループにおいてである。

聖書信仰の福音派の中ではこんな信仰は認められない。

福音派に属したいならば、聖書の記述を丸ごと受け入れなければならない。

復活も、奇跡も、処女降誕もすべて受け入れなければならない。

聖書の記述を否定する人間は、聖書を超えたと考えているのであるから、自らが神になっているのである。

彼は、「私の目、私の常識、私の理性が納得したもの以外は受け入れられない」というのだから、明らかに神である。

彼は神を裁く人間である。

もう一つ。

聖書の時代に起こったが、それ以後の時代には起こらない、というには、聖書の中で「自己証明」されなければならない。つまり、聖書にそのような教えがあることを証明しなければならない。

聖書の時代は瞬間移動があったが、今は存在しない、ということを聖書から証明しなければならない。

しかし、そのような個所はどこにもないのである。

この現代において奇跡を否定する人間はもはやクリスチャンを自称するべきではない。

なぜならば、祈りは自然現象だと述べていることになるからである。

彼は、自分が毎日行っている食前の祈りは、「ただの独り言」であると述べているのだ。

彼が教会において神を礼拝しているその行為は、ただの「自己満足」だと主張しているのだ。

祈りも礼拝も奇跡である。超自然的現象である。

どうして瞬間移動だけを聖書から除外するのか。

言っておくが、こういった聖書的根拠のない区別をする人間は、リベラリストの仲間であり、クリスチャンではない。

聖書信仰のクリスチャン、本当の契約人は、聖書啓示を基準として持つので、自分の常識を基盤にして議論をしない。

(3)
精神的な病気にかかっているというクリスチャンは、自分の理性を過信している場合が多い。

彼は、(2)の人間と同じように、基準が「自分の理性」にあるから、不安に対処できない。

彼は、聖書に頼り切っていないので、外界の出来事によって常に動揺する。

他人の評価や、事件、出来事、事故そういったものによって、常にぐらぐら揺れる。

クリスチャンで自殺するような人間は、最初から信仰がなかったのである。

彼は自我をけっして神に委ねることをしてこなかった。

もし自我を明け渡していれば、神は彼を最後の選択にいたる前に救い出すはずである。

自殺するような人間は究極の傲慢人である。

最後まで「自分の選択権」を明け渡さなかった。

最後まで「自分の理性」にしがみついた。

こういった傲慢人が自殺して果てても、それは自業自得であって、まったく同情に値しない。

 

 

2007年1月7日

 

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