日本に関する仮説16


エウセビオスによると、エルサレム教団のクリスチャンであった人々が、紀元70年のエルサレム崩壊の際に、神の示しに基づいて、難を逃れ、ヨルダン川を渡り、ペラという町についた。

しかし、その先にこれらのクリスチャンがどうなったかは不明である。歴史はこのことについて沈黙している。

飛鳥氏らは、彼らは秦氏と名乗って、中国から朝鮮、そして、日本に渡ったのではないか、と述べている。そして、その際に、彼らが十字架と契約の箱を持っていたと。

秦氏がこれらのキリスト教の象徴的遺物を持って、若狭湾の天橋立の近くに上陸し、そこに籠神社と真名井神社を建て、その後彼らの「御神体」を携えて、伊勢まで南下し、最後に現在の伊勢神宮の地にたどりついたのではないか。

このことをある程度裏付ける発言がある。

古代史学者出羽弘明氏はこう述べている。

 「古代には海人族(秦氏と思われる)が朝鮮半島から若狭に渡来し琵琶湖を渡り、尾張の伊勢に進出し(『新羅の神々と古代日本』同成社,2004, P133)」た(http://www.han.org/a/half-moon/hm106.html)。

これは、非常に興味深い発言である。

この発言と、伊勢神宮の遷宮とだぶってこないだろうか。伊勢神宮は秦氏の神社であり、その幾たびにもわたった遷宮は、出エジプト記における神の民の幕屋の移動を模しているのではないか?

さらに、出羽氏はその後の秦氏の国内移動について次のように述べる。

「・・・太平洋岸を東上する課程で木曽川、矢作(やはぎ)川、天竜川、大井川、富士川、相模川などの上流にも入植をしたのでそれらの地方には渡来系の神社や地名が多く残っている」(同上)。

古代において、川は最も便利な交通の手段であり、川づたいに渡来人が移動したらしい。

神奈川県に「秦野」とか「伊勢原」とか渡来系の地名が多いのは、川づたいの入植の結果ではないだろうか。

「神奈川」という地名にも渡来人秦氏とのかかわりがありそうだ。

このページの著者である半月城氏によると、その後、渡来人は関東地方に入り、利根川をさかのぼって各地に住みついたという。

「古代の利根川水系は現在のように太平洋へ直接流れるのではなく、埼玉県北部で南に大きく折れ曲がり、場所によっては入間川・荒川・江戸川・中川・隅田川などの別名をもちますが、最終的には東京湾に流れ込む大河川でした。
古来、利根川水系はたびたび氾濫をおこしましたが、災厄ばかりでなく武蔵国では交通・運輸の大動脈であり(注5)、多摩川水系とともに武蔵国の先進地域を形成していました。それに大きく貢献したのが渡来人や渡来文化なのですが、それらの川をさかのぼって渡来人が東京などに住みついたようです。」(http://www.han.org/a/half-moon/hm106.html

このことについて出羽弘明氏はこう述べる。

「東京の新羅神社については調査を終了していないが、墨田区の神社を調べている時に、古代の渡来氏族、主として秦氏の東進ルートの興味深い話を聞くことができたので敢えて採りあげた。
 それによれば、古代のこのあたりは海であり 外河原村、塩の河原、塩田などとも言われた。また、古代には海人族が・・・太平洋沿岸に沿って静岡から武蔵国の墨田、千葉まで移動し、一方は荒川沿いに北上し川口を通り 新座市から入間(いるま)、高麗(こま)など、現在の埼玉県に入植した。
 また一方は利根川を北上し妻沼(めぬま)、深谷、太田市、本庄等 群馬県に入植をしたという・・・
 確かに宮司の話の通りであり調べてみると妻沼や本庄、深谷の周辺には渡来人 特に新羅系と思われる地名や白髭神社などが多い。」(既出、P132)

これを読んで長年の謎が解けた気がした。

「そうか!だから、深谷や群馬県南部に秦氏の子孫と思われる人々が多いのか。」と。

ここ10年間、私は、秦系の人々と出会うことが多かった。

その中に深谷と群馬県南部の人がいた。彼らの話を聞くと、どうしてもその地方が秦系の人々の土地であるとしか思えなかった。

実際、今インターネットを調べてみたら、ここらは幡羅郡と呼ばれており、幡羅とは「秦」からきているとあった。
ここらの「原」姓は、もと幡羅だったそうだ。

http://kodai-musashigaku.m.mepage.jp/newpage21.htm

上記のページは、秦氏とこの地帯一体の深い関係について説明しているので一読をお勧めする。

仮に、秦氏が三位一体信仰を持つエルサレムから来たクリスチャンであり、キリスト教の中心の遺物を記念として携え、それを伊勢神宮の中に極秘情報として隠してきたのであれば、一体何の目的のために?という疑問が起きる。

おそらくそれは、日本という国の人類史的な意味と関係しているのだろう。

おそらくコロンブスが考えていたように、日本には失われた十部族(そして、もしかして残りの2部族も)が最終的にたどりついた場所なのだろう。(*)



(*)
コロンブスは、大航海の際に、一人のヘブライ語通訳者を連れていた。それは、極東地方には失われた十部族がいると信じていたからだ。そして、彼がジパングに執着したのは周知の事実である。

 

 

2005年11月4日

 

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