民主的体制から聖書的体制への移行3


(1)
選挙権と被選挙権を聖書的クリスチャン(聖書を無謬の神の御言葉と信じ、それを生活のすべての分野についての権威と信じるクリスチャン)に限定すべきだ、というと、「それは全体主義ではないのか?」と問う人々がいる。

これは、「一と多」の原理が分かっていないからである。

この原理は、神の存在である三位一体から得られる原理である。

神はひとりであると同時に、「父と子と聖霊」の3つの位格を持つ。

この3つの位格は永遠に存在し、子や聖霊が父から生まれたので、父が究極であるということはない。3位格は平等であり、いずれの位格に収斂されるというわけでもない。

神において、一も多もどちらも究極である。

創造者である神における存在のあり方は、被造物全体の模範である。なぜならば、被造物は神の存在を象徴するからである。

被造物世界、とくに、人格的被造物である人間と人間社会は、象徴として神の三位一体を現す責任がある。

人間と人間社会は、「一と多」の原理で運営されなければならない。

つまり、統一性も究極の価値を持ち、多様性も究極の価値を持つということをその存在を通じて体現しなければならない。

(2)
現代の、普通選挙に基づく民主主義は、多の原理である。

世界の創造者である一人の神を存在論的な基盤とせず、主に進化論に基づく「偶然に成立した世界」を基盤としているのであるから、普遍的な道徳(時代や地域を問わずに支配する道徳)は存在しない。

各人が持っている価値観はバラバラで相対的である。

「これが道だ、これに歩め」と誰に対しても主張できないという。

しかし、実際の生活において、このような「多」の原理は通用しないということを我々は経験的に悟っている。

我々は、子育てにおいて、道徳を子供に示さねばならない。

「人を殺してはならない」「ウソをついてはならない」「盗んではならない」と。

ここにおいて、人々は、「偶然に成立した世界」という原理と矛盾したことをやることになる。

たまたま適者が生き残ることによって、人間が誕生した、という考えと、普遍的な道徳とは絶対に両立できない。

進化論を信じるならば、弱者を大切にしよう、と大きな声で主張できない。

なぜならば、弱者は進化の過程で滅びる運命だから。弱者が淘汰されることによって、種は強くなるわけだから、弱者はできるだけ滅びるほうがよいといわねばならない。

しかし、こんなこと教えて子供がまともに育つわけがない。ヒトラーの教育はこのようなものだったが、それがいかにひどい過ちを犯したか歴史が示している。

人間も社会も「普遍的道徳」を必要としているので、「偶然に成立した世界」という存在論に基づく「多」の原理=多神教は、実際の世界に適用することはできない。

今日、戦後の「多」の原理に基づく教育から、礼儀も道徳もなっていないエイリアンが大量に育ったのを見た大人たちが、「やっぱり日の丸・君が代で統一しなければだめだ」と言い始めた。

しかし、国民は戦前、戦中の思想統制や人権無視の全体主義の体制に懲りているので、もう一度あのような体制に戻ることはできないだろう。

(3)
「多」も「一」も偏っている。

両方が並立しなければならない。

我々が求めているのは、多様性を尊重しながら、統一されている社会である。

これは、オーケストラにたとえられる。各楽器は個性を持ちながら、しかし、指揮者の指導のもとに一致して音楽を奏でる。

こういった社会を実現するには、聖書を神聖不可侵、不動の真理、権威として尊ぶ以外にはない。

イエスはサタンに攻撃された時に、「聖書にこう書いてある」と言って議論を打ちきられた。

創造者の御言葉がそう言っているならば、もはやそれ以上の議論は意味をなさない。

「聖書はそう言っているかもしれないが・・・」と言う意見を受け入れていては、水掛け論になり、らちがあかない。

社会は、イエスと同じように、聖書の御言葉を最終権威とすべきである。

そして、それと同時に、参政権を聖書的クリスチャンに限定すべきである。

聖書は、「クリスチャンは王である」と述べている。

この地上の国は、天の御国にできるだけ近づかねばならない。

「御心が天で行われているように、地上でも行われますように」との祈りのとおりである。

天においてクリスチャンが王であれば、地上においてもクリスチャンは王である。

「一」の原理が維持され、国としての統一を維持するには、この2つ(聖書の絶対的権威、参政権をクリスチャンに制限)を欠かすことはできない。(*)

(4)
聖書を絶対的権威として持つということと、参政権をクリスチャンに限定するということを社会を成立させる「一」とするならば、「多」とは、「聖書に記されたこと以外は自由」ということである。

全体主義は、個性をつぶす。

生活の小さな点にまで国の介入がある。なぜならば、規範が人間の考えにあるから。中国のように、為政者が代わると、幼稚園の教育までもが変わる。昨日まで英雄だった人々が、今日は反革命としてつるし上げられている。

人智主義というものは恐ろしいものである。

聖書的クリスチャンは、「聖書に書いてあることは神の御言葉として絶対の権威があるが、それ以外のことは自由だ」と考えている。

だから、人間のありのままの個性とか、才能をつぶすことをしない。

教育において失敗する親は、締めなくていいところで締めて、締めなければならないところで締めない。

子供がウソをつこうが、姦淫しようが放置しておいて、しきりに「東大に行け」とか「あんな学歴のない男と結婚するな」とか介入する。

この親は、「倫理に関しては一、その他に関しては多」という原理を知らないのである。

ポルノを放置して、日の丸掲揚に反対する人間を処罰するなんてことやるのも、為政者が「道理が分かってない」からなのである。


(*)
「え〜っ、そんな少数派でしかないクリスチャンしか投票も、被選挙権もないの?そんなの不公平じゃない?」と言うかもしれないが、私は、今のこの状況の中でそのような体制に移行することを言っているのではなく、キリスト教の伝道が圧倒的にすすんで、国民の圧倒的大多数がクリスチャンになっているという前提で語っているのである。

まず、聖霊による内的変革がない限り、政治的な変革は無意味である。

あくまでも政治的な変革は、「内的変革の外的現われ」でしかない。つまり、聖書的政治とは「聖霊の果実」でしかない。

クリスチャンになってから、平気で神の御心に反することをやって楽しんでいる人はいないだろう。

罪を犯すことがつらくてしかたないだろう。

もし聖霊が我々のうちに内住しておられるならば、聖書に反する政治体制に満足することは「絶対に」ありえない。

だから、私は、セオノミーの考えに反対する牧師やクリスチャンを見て、「この人の内側には本当に聖霊が内住しておられるのだろうか?」と疑問に思うのである。

聖書を記したのは聖霊である。その聖霊が聖書と反対の教えに満足するはずがない。だから、聖霊が内住しているクリスチャンが、聖書律法を嫌うはずは「絶対に」ないのだ。

 

 

2005年2月24日

 

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