安倍晋三は革命家である

                     by 弁護士高島章氏

以下の書込は,私が連載しているキリスト教系雑誌「ハーザー」の最新原稿の一部である。

安倍晋三内閣総理大臣就任の記念として,一部だけ,抜粋する(若干の補訂がある)。

1999年,N県弁護士会は,「人権のあゆみ」という本を出版した。要するに弁護士会の人権問題への取り組みをまとめたものだが,その際の編集会議で,「この本を20世紀中に出版して,21世紀の人権への展望を開きたい」などと委員長が述べていた。私は,「21世紀に人権という概念が生き残っているか,まずそのことを疑うべきだ」と述べたら会議のメンバーから笑われた。「人権は永遠に不滅だ」ということらしい。「永遠に不滅なのは,神様と巨人軍だけだ」と反論したら,「さすがに法哲学をやっている人は違う」とからかわれた。

しかし,残念ながら私の予言は当たってしまった。説明するまでもなく,9・11以降のアメリカのことである。私は絶対的非戦論者ではないが,9・11以降にアメリカ(ブッシュ)が仕掛けた戦争,「テロ対策」を口実とした人権蹂躙は許せないと思っている。

ごく最近の日本の政治情勢も暗鬱とした思いを抱かせる。小泉純一郎は日本国民だから,もちろん信仰の自由はある。だから,小泉純一郎として靖国神社に行こうが,教会に行こうがそれは彼の自由である。しかし,内閣総理大臣には,その様な意味の自由はない。

小泉はある意味威勢が良いだけの人間であったが,安倍晋三は,明らかな右である。
私は,「右だから悪い」といっているのではない。父親の代から統一協会と結びついていて「悪質な右」だから恐ろしいのである。

のみならず,安倍晋三は革命家である。彼の公約は「憲法改正」ではなく,「新憲法制定」だ。法律家から見れば,両者の違いは決定的である。安倍は,法学部を出ているから,両者の意味の決定的相違は意識しているだろう。

日本国憲法が明治憲法の改正という形を取りながらも,新憲法の制定であったのと同様に,安倍は,日本国憲法改正という形を取りながら,新々憲法の制定を狙っているのである。

日本国憲法の正当性を説明する道具として,当時の東京大学教授宮沢俊義は,「八月革命説」を唱えた。大日本帝国がポツダム宣言を受諾したこと自体が「(君主主義から民主主義への)革命」であり−しかも宮沢の説によれば,ポツダム宣言の受諾は,君主→民主への「債権的効果」ではなく,「物権的効果」を生じたのだ。この辺を説明し出すと,とても難しいことになるが,要するに「ポツダム宣言の受諾」は締結国に「日本はこれから民主国家になります」と合意して,そしてこの合意を基づいてこれを履行して民主国家になったということではなく,「日本はポツダム宣言を受諾して民主国家になります」と合意したそれ自体の−カトリック教会法の用語を使えば「事効的効果」として−換言すれば「受諾することによって,その法律効果として」,「民主国家」になってしまった。−新憲法は,大日本帝国憲法からその正当性を基礎付けられるのではなく,この「革命」によって,基礎付けられるというのである(宮沢俊義著 日本国憲法 コンメンタール別冊 「日本国憲法生誕の法理」)。
 

恐らく安倍が提示する憲法草案は日本国憲法の改正では正当性を基礎付けられないものであろう。どこかの大学の先生が「○月革命」でこの憲法の正当性を基礎付けることになるのかも知れない。

今日の新聞で読んだのだが,安倍晋三は,現行憲法の正当性(レジティマシー・あるいは法的な妥当性−ゲルトゥング)も,明治憲法の正当性(同様)も排斥しているらしい。そうすると−阿倍野論理の帰結として−,安倍が公約に掲げた「新憲法」の正当性は,法論理的に見て,決して現行の日本国憲法から基礎付けることはできない。
現行憲法が「正当性」を有していなければ,現行憲法の改正規範である改正憲法の「正当性」も基礎付けることはできないのである。この点から見ても,安倍晋三が公約に掲げた「新憲法」の正当性の根拠は,「法的意味の革命」に求めるしかない?

「革命」を公約に掲げた−法哲学的・憲法基礎理論的に考えるとそれ以外の説明は不可能であろう−内閣総理大臣候補が内閣総理大臣に就任したというのは,まことに革命的なことではある。

内閣総理大臣を内乱罪で告発しても良いように思える。小沢一郎が告発するととても面白い。

私は,基本的にはケルゼニアンだからこれ以上の説明はできない。あとはカール・シュミットか和仁陽助教授に聴いてくれ。

 

 

2006年9月26日

 

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