イエス・キリスト以外に救いの道はない


<A様>
はじめまして。毎日ここで勉強させて頂いています。
私の高校の後輩に医者になった者がいます。
彼は親の後を立派に継いで、地元の医者として
活躍しています。患者さんからもスタッフからも
親切で素晴らしい先生だと、尊敬されています。
彼自身、とても良い人で、仕事熱心、勉強熱心です。
しかし、彼は神を信じていません。
「死んだら“無”だよ。何もかもなくなるだけ。」と言っています。
彼のような真面目な人間でも、「イエス様を信じていない」という
理由で、死後に報われる事はないのでしょうか?
たとえ無神論者であっても、人生を頑張って生きている
彼のような人を、イエス様は見捨ててしまうのでしょうか?
僕自身、一つ年下の彼を尊敬しています。
僕のような平凡なサラリーマンよりも、肉体的にも
精神的にもキツい仕事をしている彼を、
イエス様がお救いにならないとは思えないのですが…。
逆に、彼が救われないなら、人格的に劣る私のような
人間は、絶望的になってしまいます。
tomi先生は、どのようにお考えでしょうか?

<tomi>
メールありがとうございました。
HPをご覧くださりありがとうございます。
人間として立派に仕事をしておられる後輩のお医者様は素晴らしいと思います。
私も尊敬するクリスチャンではない方々をたくさん知っております。
私は、これらの立派な方々が救われてほしいと思っています。

しかし、聖書の言う救いというのは、私たちの基準で考えるのとは次元の違う事柄です。
イエスのもとにある立派な青年が現れました。お金持ちで地位もありました。彼はこうたずねました。

「先生、救われるには何をすべきですか」
イエスは「聖書に書いてあることを守りなさい」と答えられました。
「そのようなことは小さいころから守っております」
「あなたには一つ欠けたところがあります。持ち物をすべて売って貧しい人々にほどこしをしなさい。その上で私についてきなさい」
その答えを聞いて青年は顔を曇らせて去って行きました。
この青年に欠けたところとは、自分の持ち物に固執するところでした。
神様の前では、一つ欠けたところがあっても救われません。
人間の目で見て、完全無欠のように見える人間でも何か欠点があります。
私たちは、このような欠点を見て、「人間らしい」と思えるかもしれませんが、神様にとっては受け入れがたいことです。

神様は、法を定められた方であり、その法を破る人を許すことができません。
必ず罰を下す以外にはありません。
もし神様が、「いいよ。硬いこと言わないから。」と言ったら、自ら法を破ることになります。
罪に対して刑罰を下さなければ法秩序を破壊することになります。
神様は絶対に聖いお方なので、完璧な人しか受け入れることができません。

しかし、それならば、誰も救われないということになってしまいます。
そこで神様は、完全無欠の人であり、同時に神であるイエス・キリストを遣わし、彼に完全に法を守らせ、さらに、私たちの身代わりに十字架につけて殺されました。
イエス・キリストは、神の基準を完全に達成し、さらに、私たちの罪を身に負って死なれました。

このことによって、不完全である私たちが神に受け入れられる身分を得られることとなりました。

旧約聖書には、犠牲制度があります。そこで、神様を礼拝する人は、必ず自分の身代わりになる動物を殺す必要がありました。彼は、動物の上に手を置いて、その動物が自分の身代わりであることを示しました。
その動物の血を携えて、祭司は、神の祭壇の前で礼拝をすることができました。(*)
この動物はイエス・キリストの象徴です。

至聖所にある契約の箱の蓋は「贖いの蓋」と呼ばれています。なぜこのような名前がついているかというと、中にある十戒の石板を人間が直接見ることがないためでした。贖いの蓋を取って中を見た人々が死んだと聖書に記されています。

これは、「人間はイエス・キリストの贖いなしでは、神の要求を突きつけられると死ぬしかない」ということを示しています。贖いの蓋はイエス・キリストの象徴です。イエス・キリストの贖いを媒介としない限り、人間は神の法によって即座に処刑されます。人間が神に近づくには、贖いの血が絶対に必要であり、人間的な基準では神に受け入れられることは絶対にないのです。

神の目から見ると、私たちの行う善い行ないは罪なのです。それは、たとえて言えば、泥靴を履いて部屋の掃除をするようなものです。掃除をするために歩き回れば回るほど泥を撒き散らしてしまいます。

「神様、どうですか私は部屋をきれいにしようと努力していますよ!」と言っても、歩いた後には泥が残っています。私たちは善行をすると、「なんて自分は素晴らしい人間なんだろう。」と心の中でうぬぼれてしまいます。それによって、神は私たちの善行を受け取ることができません。

聖書における神の聖さは私たちの考えるのとは次元の異なるレベルのものです。

それゆえ、完全な人間であり、同時に神であるイエス・キリスト以外に救われる道は存在しないのです。

(*)
もし血を携えないで祭壇に近づくならば、その祭司は殺される可能性がありました。

実際に、至聖所で祭司が死ぬことがあったため、祭司の足にはロープが結ばれていて、死んだ場合に、ロープをひっぱって至聖所から引きずり出すということが行われたという伝説が残っているくらいです。

 

 

2009年3月1日

 

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