オリンピックレベルのクリスチャン


聖書信仰の本当のクリスチャンと、偽クリスチャンの違いは、炉の中に放り込まれて試されたことがあるかないか、の違いである。

本当のクリスチャンならば、真理を悟らせるために、徹底した失敗を与えられ、やることなすこと逆になる時代を経験する。

それは、「世離れ」をするためなのだ。

合わない仕事をさせられ、合わない上司の下で働かされ、合わない環境のもとで試行錯誤させられる。

成功するかなと思ったら直前でダメになるという経験を何度もさせられる。

合わない仕事をさせられるので、失敗が増える。失敗が増えるから、周りの信頼を失う。信頼を失うから身を小さくしなければならなくなる。自信を失った姿を見て、サタンに憑依された人間が近づいてきて、いじめをはじめる。

いじめることに慣れると、彼は組織の他の人々を巻き込んで、袋叩きにしようとする。

本来、そんなことをしないような人でも、霊に憑依されると残酷な人間に豹変する。

その場から逃げ出したいが、逃げ出せない。いろんなしがらみがあるし、家族を養わねばならない。

逃げ出す時を神は教えてくださる。これは、一つの学校であるから、卒業の時期は必ず来る。

周りがざわざわして落ち着かなくなり、人事異動によって組織ががらっと変わったり、ここにいても何の意味もないと分かる時がその時である。

その時が来ないうちは、辞めたくても神は辞めさせてくれない。何か助けがあったり、やる気をもたせてくれる小さなことがおきたりして、継続する力が与えられる。

しかし、辞める時には、「そこに属することがまったく無意味」に感じられるものだ。いても何も建設的なものが生まれない。自分にとっても利益は一つもない。そういった時期がくる。

絶対に勘違いしてはならないのは、これは、偶然に起こったこととか、失敗とかではないということだ。これは、神の学校なのだ。

挫折という名の学校なのだ。これを経験しない人は、大きくは用いられない。

神の働き人といっても、いろんなレベルがある。聖書オンリーというのではなく、ヒューマニズムの教えが半分入ったもので牧会をやれる人というのは、この訓練を経ていない。

中途半端なところで、成功を与えられたので、それが悪いなんて思えないのだ。しかし、神の御国の前進のために本当に用いられる人は、半キリスト教半ヒューマニズムのような教えでは絶対に成功は与えられない。

スポーツ選手でも、趣味程度のレベルと、オリンピックレベルとは訓練の厳しさが違う。オリンピック選手には、中途半端な妥協は許されない。

このHPを見て、「過激だ」なんて感じているのは、こういった厳しい訓練を経ていないからだ。今のふにゃけたキリスト教で満足している人は、そういったレベルの働き人でいいと神から値踏みされた人である。

明治の知識人に巨大な影響を与えた内村鑑三は、次から次へと過酷な試練を味わった。アメリカの白痴院で「ジャップ、ジャップ」と罵られながら奉仕をした。

ご真影に拝礼しなかったということで非国民扱いされ、家に石を投げられた。心労のために奥さんが死んでしまった。弟子有島武郎が信仰を捨てて人妻と心中した。貧困、娘さんとの死別、高弟の造反・・・ありとあらゆる辛酸を舐めた。

このような苦しみを通ったので、彼は、当時のちゃらちゃらしたキリスト教に惹かれなかった。金儲けや富貴栄達に走る牧師や教会に魅力を感じなかった。ホンモノのキリスト教を伝えたいという思いで、無教会運動をはじめた。

残念ながら、彼は神学者ではなく、教理の面で欠陥があったが、しかし、当時の若い知識人に大きな影響を与えた。志賀直哉、岩波茂雄、正宗白鳥、塚本虎二、黒崎幸吉、関根正雄、南原繁、矢内原忠雄、山室軍平・・・。

神は、趣味のレベルと、オリンピックレベルと区別しておられ、それぞれに選ばれた人々を用意しておられるのだ。過酷な訓練をえないで、オリンピック選手になれると考える人はいない。もしあなたが過酷な試練を通過しているならば、神があなたをオリンピックレベルのクリスチャンにしようとしておられると考え感謝して欲しい。

 

 

2004年8月12日

 

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