献金に関する聖書的教理


新興宗教のように金集めと考えてほしくないのですが、聖書からはっきりという。

我々の十分の一は、我々のものではなく、神のものである。

神の十分の一を自分のものとして使用することは、窃盗である。


人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。(マラキ3・8)

窃盗といっても、人間から盗むのではなく、神から盗むのである。

だから、窃盗だけではなく、「冒涜」である。

神にのみ属するものを自分のものとして着服することは、重罪である。

この重罪の当然の結果として、我々は、祝福を奪われる。

とくに金銭的な問題に巻き込まれたり、なかなか収益が上がらないということが起こる。

もし金銭的な問題で停滞しているならば、自分が十分の一を捧げているか振り返るとよい。

十分の一を捧げるならば、祝福される。

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3・10)

神を試すことは重罪であるが、この献金に関しては、例外である。唯一の例外である。

正会員、つまり、投票権を持つ理事(つまり、教会の経営責任を負う者)としての会員は、十分の一献金は、所属教会にするべきである。

教会の運命を担う者として、自分の収入の十分の一をその教会に捧げ、教会運営に責任を負うのは当然である。

その他のクリスチャンミニストリに十分の一の一部を捧げたいのであれば、その教会の正会員になるべきではない。

もし十分の一を教会に捧げずに、その教会の正会員になれば、教会の乗っ取りが容易に起こる。

たとえば、百分の一しか捧げていない人が、正会員として投票権を持ち、長老や牧師を選出できるとするならば、その教会は、他の教会を出た「いわくつきの信者」によって組織的に経営を乗っ取られることが起きる。

とくに信徒の献金によって会堂をたてた場合に、その会堂を横領するためにひそかに信徒を多数派遣して投票権を入手し、多数決である異端の牧師を招聘して、そこを乗っ取ることができる。

正しいクリスチャンは、その異端の教えゆえにいたたまれなくなって出ざるをえなくなる。

そうすると、自分が神のために捧げた献金がパーになる。

こういう話は、現実に起こることであるから、十分の一献金をどこに捧げるかは非常に重要である。

さて、現在、国は我々から正規に取ってよい限度を超えて取っている。

それは4割から5割になると言われる。

我々は、自分の収入の4−5割を盗まれていることになる。

盗まれている場合に、その分は収入に入らないので、そこから除外することができる。

だから、我々は、十分の一の6割から5割を献金することが定められえている。

クリスチャンは、その所属教会に対して自分の収入のグロスの0.5−0.6割を献金すべきである。

ただし、準会員として選挙権を持たない場合には、その必要はない。

ただし、神の働きへの献金の合計金額が0.5−0.6割になるように調整する必要がある。

これをする気持ちがないならば、それは、契約を捨てたことになるから、クリスチャンである資格を失う。

だから、その洗礼は無効である。

教会は、そのような信徒を受け入れてはならない。聖餐式を拒絶すべきである。

以上、献金に関する聖書的教理である。

 

 

2010年5月21日

 

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