殉教できない人間は永遠のいのちを失う


911事件の翌日に、ビルからさかさまに落下する人の写真が掲載され大きな議論を呼んだ。

この人は、最上階のレストランの従業員であり、父親が牧師であることが判明した。(『フォーリング・マン−9・11 その時、彼らは何を見たか?』http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/dvd/20061020et0f.htm

なぜクリスチャンの子息が犠牲に?と思うかもしれない。

今日、人々は、宗教や神をはじめ、あらゆるものを「自分の幸福に貢献するかどうか」という基準で判断する。

学校においても「自分の幸せと欲望を追求する」ということこそ人生の目的であると陰に陽に教えられてきた。

しかし、聖書によると、人間は「犠牲」や「いけにえ」として創造された。

アブラハムは、人生の最後の試練として、イサクを犠牲として捧げることを求められた。

ひとり子イサクを捧げることは、自分を捧げることに等しい。

堕落前のアダムは、神に完全献身していた。

神の前において人間には一つの反逆も反抗も許されなかった。

エデンの園におけるたった一つの反逆が、人間を奈落の底に突き落とした。

自分の幸せとか快楽などといったものを追求することを当然と考える我々の社会は、本当のキリスト教を受け入れられない。

今日の教会はヒューマニズム(人間中心主義)の影響を受けており、神と人間の立場が逆転している。

「イエスはあなたを愛しておられます。」という言葉が会堂内にたえず充満していないと人々は寄り付かないと考えているのである。

教会成長学がはびこってからこの傾向はとくにひどくなった。

イエスは我々の幸せを達成するための手段と化した。

本来のキリスト教によれば、逆である。

人間が、イエスの幸せを達成するための手段なのである。

「神がいるのになぜこんなことが・・・?」と言ってはならない。

幸いも不幸もすべて神の栄光のために、そのご計画のために起こる。

神のために自分の命を捧げるということが、人生の出発点なのである。

この基準から出発しないキリスト教は偽者である。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12・25)

殉教できない人間は永遠のいのちを失う、とはっきり書いてある。

 

 

2006年11月8日

 

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