勝利は聖書信仰の人々に与えられる3


救われるクリスチャンと滅びるクリスチャンの違いは、「聖書を自分に従わせるか、それとも、聖書に自分を従わせるか」の違いである。

滅びるクリスチャンというのはおかしな表現である。

クリスチャンは滅びない。だから、滅びるクリスチャンがいるとすれば、その人は本当にはクリスチャンではなかったのである。

この2種類の人々が教会の中には必ずいる。

救われるクリスチャンと滅びるクリスチャンと。

サタンは必ず異なる人々を教会に送り込む。

それが誰であるかは詮索できない。

なぜならば、仮に「私はキリストを唯一の救い主、人として地上に来られた神と信じます」と告白し、洗礼を受ければ全員が「クリスチャン」であるから。

我々は彼らをクリスチャンとして扱わなければならない。

しかし、クリスチャンと呼ばれる人々の中でも途中、信仰からずれて、滅びのほうに向かう人々もいる。

彼らは、表面的にはクリスチャンである。しかし、話の内容を聞くとまったく我々と異なる人々であることが分かる。

我々とこれらの人々の違いは、主に次の点である。

「滅びる人々は、聖書を自分の考えにあわせるために利用するが、救われる人々は、自分の考えを聖書にあわせようとする」

どうしてこのような違いがあるかご存知だろうか。

「自我」である。

自我を神に明け渡していないからである。

自我が心の王座に座っているからである。

彼にとって、聖書はその下で、自分に頭を垂れている部下である。

つまり、こういう人々は実質的にクリスチャンではないのだ。

もし本当のクリスチャンであるならば、聖書を絶対的な権威として自分の上におくであろう。

自分の考えと聖書がぶつかった場合に、自分の考えを捨てるだろう。

しかし、これらの滅びる人々は、絶対に自分の考えを曲げない。

彼らは頑固である。

そして、自説を一貫して主張し続ける。

こういう人々が教会のリーダーになると教会全体が異端になる。

だから、教会の指導部の人々は、こういった滅びる人々が教会の指導部に侵入しないように監視しなければならない。

聖書を踏みつけにする人々は、悪魔の弟子である。

悪魔が彼らを教会に送り込む。

そして、教会全体を乗っ取り、キリスト教界全体を乗っ取り、神の国を破壊することをもくろんでいる。

このようにして我々の周りでは、教会が死滅し、悪魔の支配が拡大している。

世界は悪魔に乗っ取られつつある。

我々は、神の権威を帯びているから、彼らよりも強い。

我々は、目を覚まして祈り、神の国の拡大を求めなければならない。

教会から滅びの思想が一掃されるように祈るべきだ。

誰が救われる人々で、誰が滅びる人々であるかは、時が明らかにする。時間がたつと、誰が良い麦で、誰が毒麦であるかがわかる。

どちらも必ず成長するからだ。

それは、行いにおいて明らかになる。

毒麦は、必ずおかしなことをし始める。自我臭を漂わせ、自説の宣伝、教会権威に対する反抗、謀略、中傷などを始める。

驚くべき不正が明らかになる。


あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。(マタイ7・16-19)

その人がどういう人であるかは、行動を見れば明らかだ。

滅びる人々であるかどうかは、いずれ行動に現れるから早まった行動に出るべきではない。

 

 

2009年1月24日

 

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