日本についての仮説19


パレスチナは水に囲まれている。

北はユーフラテス川、南はナイル川、東はヨルダン川、西は地中海に。

つまり、この地は、要塞だったのである。

聖書において、エデンの園は要塞である。高い壁に囲まれていた。門があり、そこに回る炎の剣があり、ケルビム(天使)が門番をしていた。

パレスチナはエデンの園として神によって造られた地であった。

契約の民は、エデンに入る権利がある民である。

アダムとエバは神と契約を結び、神の民であったから、エデンの園に入り、祝福を受けていた。神からの守りもあった。

しかし、彼らが罪を犯して契約を破ると、そこから追放された。

イスラエルも、罪を犯したために、パレスチナから追放され、離散した。

バビロン捕囚は「エデン追放」と同じ意味がある。

さて、バビロン捕囚が終わってから、パレスチナに帰ったのは、3部族だけであった。ユダとベニヤミンとレビである。

その他は、東のほうに向かったという記録があるだけでどこに行ったかわからないと一般に言われている。

しかし、私は彼らは日本に来たのではないかと考えている。

なぜならば、「罪を赦されて契約の地位を回復した人々がエデンの園以外に戻ることはありえない」からである。放蕩息子のたとえで、悔い改めた息子は、父親のもとに帰った。これは、契約的地位を回復し、神の臨在のもとに帰ったということを表している。それは、エデンの祝福の回復である。

捕囚という裁きにあったが、罪を赦されて契約的地位を回復した10部族が、どうして離散したままでいいと言えるだろうか。彼らは祝福の中に戻ったはずである。

エデンの園の地であるパレスチナ、カナンの土地に10部族が戻らなかったのは、他にもう一つエデンの園の地があったからではないだろうか。

日本は、四方を海で囲まれた自然の要塞である。数々の外敵の侵入から守られてきた土地である。

西のイスラエルの対極にある東の土地である。

古くから中国では、東の海上に2本の桑の木が生えている土地があるとの伝説があった。

これを扶桑伝説と言う。ご存知のとおり、扶桑とは、日本の異名である。

雷がなるとくわばら、くわばらというのは、この伝説で「その桑の木の生えた土地から太陽がこれを伝って昇るから」と言われているからである。太陽は雷雨の反対であるから、雷に対するには太陽を持ち出すのがよいというわけである。

扶桑伝説が示す日本は、太陽の国、桑の国、2本の木の国である。

日本の国名とこの扶桑伝説と深いつながりがあると思われる。

国名に日=太陽が含まれること、「日本」=「にほん」=「二本」であること…。

ちなみに、桑の異字体では、「又」の部分は「十」である。十という文字はヘブライ語で「タウ」と呼ぶ。エゼキエル書9・4で、真の契約の民の額には「タウ」の文字が記されたとある。(*)

「主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」

ここで「しるし」と訳されているヘブライ語は「タウ」である。当時タウの文字は現代のような形ではなく、十字架の形をしていた。

http://www.oignoto.com/studies/tidbits/ezekiel9-mark.htm

桑は蚕の食物として絹と関係している。絹は、古来シルクロードの交易においてユダヤ人の独占であったとラビ・トケイヤー氏が言っている。

とすれば、桑の木の国とは、ユダヤ人の国という意味になるのではないだろうか。

仮に扶桑伝説が古代中国に住んでいたユダヤ人の作であるとすれば(中国文明に対するユダヤ人の影響については別に論じる)、「二本の木」は、エデンの園の中央にあったと聖書が述べる「善悪の木」と「生命の樹」を表すだろう。

中央にあるということから、この2本の木は、エデンの園を象徴すると考えてもよいだろう。

となれば、日本はカナンに次ぐ「第2のエデンの園」と考えることができるだろう。

紀元70年のエルサレム陥落も、「エデンの園からの追放」であったから、その際にも「追放されるべきではないクリスチャン・ユダヤ人」も、日本にやってきたと思われる。


(*)
タウの文字と、英語のtと漢字の「十(トウ)」とは互いにつながりがあるだろう。青森の旧戸来村では、生まれた赤ん坊の額に十の文字を書く習慣があった。

 

 

2006年1月25日

 

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