対話のない断罪を続けているとカルトになる


恐らく、改革派と長老派以外の教師に何か神学的なテーマについて話しをさせたら、その話しの内容の空虚さと、無知と無理解に一般の信徒は驚くことだろう。

私は、そのようなことを何度も体験してきた。

どうしてこうなったのか?

恐らく、改革派神学に対して対抗する行為そのものが、無知と頑迷の入り口だからだろう。

改革派神学は、心を素にしてとりかかれば、その偉大さは10秒もたたないうちに理解できるだろう。

宗教改革の本命として現れたジャン・カルヴァンという人物の思想に逆らう教派は、自分が批判している相手のことがまるで分かっていないのである。

自分が相手を批判すればするほど、自分が横車を押していることに気づくだろう。飽きもせずに改革派を批判する連中は、本当のところ自分たちに対抗するだけの力がないということを知っているのである。知っているが、認めたくないものだから、無理につっぱって生きているのである。

ディスペンセーショナリストの教師が「契約神学は…だから駄目なんだ」という時、彼の頭の中には実は契約神学についての知識はまったくないのである。

これは、再建主義に対する批判でも同じである。

私の親戚がある教会に入会するために牧師のもとに出向いたところ、その牧師は私が再建主義者であることを知っているため、「あなたの親戚のtomiさんのようにあなたも再建主義を信じているわけではないですよね。」と尋ねたという。

このがちがちのディスペンセーショナリストの教会の群れは、私を異端者のように扱っているが、しかし、彼らが私に議論をもちかけたことは「一度も!!!」ないのである。

対話なしの一方的な断罪。

恥ずかしくないか? 陰でコソコソやって。

何度も繰り返すようだが言わねばならない。

我々と対抗するのは無理だ。

他の教派と比べて、カルヴァン主義、改革派、再建主義が比較にならないほどダントツに学問的に優れているからだけではない。

我々は「素直」だからでもあるのだ。

我々は、我を張らない。我を張らない、素直な人を攻撃して打ち勝つのは難しい。

無心な人をやっつけることは難しい。

無心な人は、無理な理屈を言わない。きわめて理にかなったことしか言わない。それで有名になろうとしているのでも、金儲けをしようとしているのでもない。キリスト教界で有力者になろうとしているのでもない。

ただ、聖書が何を言っているのかについてだけ関心があるのだから、そんな人間を相手にして勝てるわけがない。

勝ち目がないと分かると、次にやることは、むちゃくちゃな断罪・異端の烙印である。

だから、我々と対抗したり、我々の陰口を言う人間はますますカルトになるのである。

 

 

2005年7月14日

 

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