字義的解釈と象徴的解釈の区別38


<Q>
カルヴァン主義では人間は騙されたから救いの手をさしのべられた、と言っているのでしょうか。それとも全的堕落をしているので、騙された、されないに関係なく。つまり理由など全く関係無く一方的な恩恵によって救いが起きていると言っているのか。私個人的には後者のような気がするのですが。いかがでしょうか。

<A>
一方的な救いです。
罪を犯したら地獄以外にない、というのがスタートです。
どういう経緯で罪を犯したかということは、犯した側からみていかなる権利にもなりません。
「騙されたのだから当然救われるべきだ」なんてことは絶対に言えない。
「原罪をもって生まれた以上、罪を犯す以外にはないのだから、罪を裁くというのは不当だ」と人間は言えません。
あくまでも神の裁きとは、「違法行為に対する正当な刑罰の実施」です。
背後関係、動機などいっさい関係ありません。罪を犯したらそれと同時に刑罰の必要性が発生します。
どんな理由があるにせよ、自分の家のガラスを割られたら、被害者は加害者に弁償を求めるのと同じです。
割ったほうの都合は、割られたほうにとって関係ありません。「それはあなたの問題でしょう。私は関係ない。」とつっぱねられるだけです。

リベラル派の人々に多くいるのですが、カルヴァン主義の神について説明すると、「私はそんな神様は嫌いだ」と言います。
「原罪を負って生まれてくる以上、罪を犯すのは仕方がないじゃないですか。」と神様に文句を言うのは筋違いです。それは「あんなに大きなホームランを打たれたら、キャッチできないのは当然ですよ。だから、窓ガラスを割ってしまったとしても当然と思いませんか。」と被害者に向かっていっている加害者のようなものです。

リベラルとカルヴァン主義者の違いとは、自分の都合を優先するかどうかというところにあります。

罪を犯した人間は、あわれみを受けることなく永遠の地獄に落とされます。人間の側にはいかなる権利もありません。

しかし、神はその地獄が当たり前の人間を救ってくださった、これが聖書の救済です。

だから、人間は「神のあわれみ」に感謝できるのです。

リベラル派の神の場合、「救うのが当然」の神であり、人間が義務を負わせることのできる神です。

 

 

2007年2月12日

 

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