『業の契約に関するジョン・マーレーの批判』への応答


<スミス氏>

ジョン・マーレーは、「わざの契約」に対する反対者として有名な神学者である。彼は、改革派の契約の教理は「やり直す」必要があると述べた。彼は、『ウェストミンスター信仰告白』に見られる用語法や強調が、神と人間の最初の関係を「律法の契約」とする概念には疑いの余地があることが暗示されていること、それ故、『信仰告白』が作成された時点ですでに問題に直面していた、という意味のことを述べている。

先週、ジョン・マーレーが書いたある記事が目に留まった。それは以前にも読んだことのある記事だが、ジョン・マーレーが言おうとしていたポイントに初めて気が付かされ、新鮮な驚きを覚えた。ジョン・マーレーは、「ウェストミンスター信仰告白の“行ないの契約”の概念は、書かれた時点で既に崩れ初めていた」と話している。つまり、「ウェストミンスター小教理問答、大教理問答、そして信仰告白では“行ないの契約”を教えているが、同時に、その行ないの契約の中には恵みも含まれていると教えているからだ」と、ジョン・マーレーは説明している。例えば、「神は御自分を低くして契約を結ばれた」とか「祝福が与えられるために」というような説明を“行ないの契約”の説明の中でしているのである。

つまり、1641〜1642年頃にそれらの信仰告白や教理問答を作る作業に入っていたのだが、その時点で既に、作成に携わった人たちの間には、「これは単純に行ないの契約とはとても言えない。豊かな恵みが最初からあったことを十分に認めなくてはならない」という考え方が既にあったのである。その考えはあったけれども、「行ないの契約と恵みの契約」という枠組みが既にでき上がっていたために、その枠組みに沿った説明を強いられたというような経緯があったと思われる。その枠組みが聖書の記述にやや合致しない面があることに彼らは気付いていたが、敢えてその枠組みを変えることをせずに、「行ないの契約」に「恵み」を少し含ませることによって問題の解決を計ろうした形跡がうかがえる。

説明が足りないが、ポイントは理解していただけると思う。マーレーが彼の歴史的分析において正しかったか否かは別として、エデンの園における最初の契約が法的な功績に基づいた「わざの契約」だという概念が神学的におかしいことは明らかである。この枠組みの中での律法は、祝福というよりは“テスト”として与えられる。この概念は、神がアダムとエバを惑わして祝福から追い出すために命令を与えたというサタンの提案に危険なほどに近い。この概念においては「贖い」の意味も歪められている。というのは、「贖い」は「回復」であるからだ。もし、人の最初の地位が法的功績によるものであったならば、人はそこから恵みに墜ちたことになる。さらに悪いことに、恵みが彼を元の地位に回復するとき、彼は再び法的功績へと回復されることになるのだ。律法の概念をこれ以上深く歪め得るものを想像することは困難である。

実際に深く創世記のエデンの園のところを学ぶときに、「これはとても行ないの契約というような話ではない」ということは明らかである。「行ないが良ければ、その行ないの功績によっていのちを得る」というような話ではない。そのことを幾度か強調して既に話したけれども、今日また繰り返し強調して言っておきたいと思う。父親と母親たちは、このことをよく把握し、子どもたちによく教えることができるようにしてほしい。子どもたちにも、もともと神と人間との関係がどのような関係だったのかを十分に知ってもらいたいので、繰り返しこのポイントを話しておきたいと思う。

<tomi>

論理の飛躍があります。

(1)
「この枠組みの中での律法は、祝福というよりは“テスト”として与えられる。この概念は、神がアダムとエバを惑わして祝福から追い出すために命令を与えたというサタンの提案に危険なほどに近い。」

「テスト」と「惑わし」はまったく違います。

もしテストが惑わしであり、「祝福から追い出す」ためのものとしか考えられないとするならば、学校の先生はみな、「惑わす者」になり、生徒を貶める悪者になります。

アダムは、契約の代表者として、神の前に全被造物の完成者として任命され、そのために従順を貫くかどうかテストされたのです。神がこのようなテストをアダムに与えたからといって、神が「誘惑者」であり、「人間を惑わす者」になるというわけではありません。

(2)
「この概念においては「贖い」の意味も歪められている。というのは、「贖い」は「回復」であるからだ。もし、人の最初の地位が法的功績によるものであったならば、人はそこから恵みに墜ちたことになる。」

スミス氏は、「法的功績を要求される状態」イコール「恵みのない状態」という間違った方程式を立てています。

神が人間に法的功績を要求したとしても、それは「恵みはない」ということにはなりません。

神は愛の中において、人間を「法的功績を要求される者」にお立てになりました。これは、「被造物の長である人間に功績を積ませて、被造物の完成者にさせようとされた」ということを意味します。

これがどうして恵みのない行為でしょうか?

いや、むしろ、人間を高く評価していたから、このようになさったのではないでしょうか?

社長が部下に一番重要な支店の運営を委ねたならば、任された部下は、「社長は愛も恵みもないなあ」と感じるでしょうか。むしろ、「私を高く評価してくれたのだ。がんばろう」と思うのではないでしょうか。

(3)
「さらに悪いことに、恵みが彼を元の地位に回復するとき、彼は再び法的功績へと回復されることになるのだ。律法の概念をこれ以上深く歪め得るものを想像することは困難である。 」

事実、「恵みは、人間を元の地位に回復し、再び法的功績へと回復した」のです。しかし、その人間の代表者は、もはやアダムではなく、キリストです。

人間となられたキリストが「法的功績」を完全に積まれたので、それにつながれている我々も「法的功績」を完全に積んだ者とみなされるのです。

キリストにあるすべての人間は、アダムが失敗したテストに「キリストにあって」合格したのです。

(4)
「実際に深く創世記のエデンの園のところを学ぶときに、「これはとても行ないの契約というような話ではない」ということは明らかである。「行ないが良ければ、その行ないの功績によっていのちを得る」というような話ではない。そのことを幾度か強調して既に話したけれども、今日また繰り返し強調して言っておきたいと思う。父親と母親たちは、このことをよく把握し、子どもたちによく教えることができるようにしてほしい。子どもたちにも、もともと神と人間との関係がどのような関係だったのかを十分に知ってもらいたいので、繰り返しこのポイントを話しておきたいと思う。」

エデンの園の話は、明らかに、「人間は神の創造の完成者として立てられた」ということを教えています。

「地を従えよ」との命令の原語は「地を足台にせよ」という意味です。

これは明らかに、人間に「地球という舞台において王として働け」という命令であり、功績への期待です。

神は人間に「被造物の王」という特別な地位と栄誉を与えておられる。これは、人間にとって栄光です。

神が人間をそのように尊い者として立ててくださった、ということは人間の尊厳の基本です。

これが、どうして「恵みのない状態」でしょうか。

神がアダムに重大な責任を与えたことがどうして「誘惑」なのでしょうか。

私はどうしてスミスさんがこのような考えをするのか非常に不思議です。

きわめて単純な理屈であり、この点でなぜ誤謬に巻き込まれたか理解に苦しみます。

 

 

2004年3月14日

 

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