理屈を聖書啓示に優先するような人はクリスチャンではない


学界は、ノンクリスチャンに支配されている。

ノンクリスチャンは、心の奥底で、神に敵対しているから、聖書啓示を否定し、自分たちが作った世界観でまとめあげようとする。

だから、学界と仲良くやろうとする場合に注意しなければならないのは、良いものと悪いものを分けることだ。

聖書啓示に違反しているならば、退ける。

学界の意見にしたがって聖書を評価する、というのは逆方向。

あべこべ。

神の言葉を人間が評価できるということ自体が言葉の矛盾。

神は絶対であり、神の言葉も絶対であるならば、聖書を基準として設定しなければならない。

だから、「今の科学では、宇宙が6日で作られたなど信じられない」という人は、神を超えたと宣言しているのだ。

これがどの程度の傲慢か理解できるだろうか。

そう、地獄に行くレベルの傲慢だ。

クリスチャンは、発想を徹底してひっくり返すべきだ。

聖書が基準であって、ノンクリスチャンの学問ではない。

帰納法的に、データ収集→法則性発見→実験→検証→証明というような手順は絶対の方法ではない。

それは、神の言葉には通用しない。

エデンの園で、神は、アダムにどのような命令を与えたか?

「園の中央の木の実を食べるな」であった。

中央にある「食べるによさそう」な実を食べるな、ってむちゃです、と言いたくなるような状況だ。

5つ星のレストランを紹介し、おいしそうなステーキの写真を載せたタウン情報誌に但し書きで「しかし、絶対に行ってはならない」と書いてあるようなものだ。

なぜ神は、そのような理不尽な命令をアダムに与えられたのか?

「自然よりも神の言葉を優先せよ」ということ。

人間が自然から得る知識、経験科学や自然法を含む知識は、絶対に聖書啓示に優先させてはならないということだ。

人間が自分に絶対服従するかどうかを試すには、理不尽なことを命令する。

神は人間に絶対服従を命令しているのだ。

理屈を超えて。

だから、非六日創造説を信じるような人は、クリスチャンではない。

科学を聖書よりも優先するような人は、神に絶対服従するつもりはないと宣言しているのだから、クリスチャンではない。

 

 

2011年1月5日

 

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