ブッシュ家はJFK殺害に荷担したのか?


http://www.jfkmurdersolved.com/bush.htmより抜粋。

- ジョージ・(ハーバート・ウォーカー)・ブッシュは、JFKが暗殺されたときに、ダラスにいた。このことについて質問されても、「どこにいたか覚えていない」と言っているが。

- ブッシュは、JFKの暗殺の時にCIAの高官であったがこれを否定している。

- ブッシュは、有罪宣告されていたテロリストを刑務所から出し、CIAの秘密部員として、イランコントラ事件において働かせた。

- ブッシュは、もう一人の有罪宣告されていたテロリストも釈放した。

- これらのテロリストたちはどちらも1963年11月22日にDealey Plazaにいた。

- これらのテロリストたちはどちらも航空機爆破テロで73人を殺したかどにより有罪の判決を受けていた。ブッシュは彼らと個人的な友人であった。

- ブッシュは、CIAの高官として、これらのテロリストたちをまとめ、有能な組織に作り変えるあげる際に、主要な役割を果たした。

+ プレスコット・ブッシュ(ジョージの父)は、アドルフ・ヒトラーの戦争に資金提供することで財を築いた。彼のグループには、銀行家仲間であるアヴェレル・ハリマンとローランド・ハリマン(全員がスカル・アンド・ボーンズ)がいた。

ジョン・フォスター・ダレスは、後にCIA長官になるアレン・ダレスの兄弟であった。アレンは、ニクソン副大統領とジョージ・ブッシュとともにピッグス湾侵攻(カストロ・キューバ政権を倒すクーデター)を計画した。

ケネディは、この計画失敗の責任をとらせ、アレンを解任した。

リンドン・ジョンソンはアレンをウォーレン委員会に入れ、ケネディの暗殺について調査するよう命じた。

+ ダラスのエンパイア・トラスト社の副社長であったジャック・クリクトン(ナフコ・オイル・アンド・ガス社の社長でもあった)は、Army Reserve Intelligence(陸軍予備役情報部)と関係があった。

1950年代後半と1960年代前半に対キューバ諜報部長であったフェビアン・エスカランテの著書(1995年)によれば、キューバから「フィデル・カストロが共産主義者になった」という情報が届くやいなや、「作戦40」という名前の計画が始動した。その実行者は、副大統領リチャード・ニクソンが議長を務めていた米国安全保障会議であった。

エスカランテによれば、ニクソンはキューバ問題の担当高官であり、ジョージ・ブッシュとジャック・クリクトン(どちらもテキサスの石油人)をトップにいただくビジネスマンのグループを作り上げ、作戦実行のための資金集めを命じた。

http://www.davidicke.net/tellthetruth/coverups/bronfmanbush.html

Dick Russellの著書The Man Who Knew Too Much (New York: Carroll & Graf Publishers/Richard Gallen, 1992)の614-615ページには、マリーナ・オズワルド(ケネディ暗殺犯オズワルドの妻)を取り巻くダラス人たちについて記述がある。

当時、諜報部員たちは、ロシア語を話す人々を求めていた。イリヤ・ママントフはジョージ・ブッシュを知っており、ロシア語を話した。サン・オイル社の地質学者であった彼は、暗殺の5時間後にジャック・クリクトンから電話を受けた。

クリクトンは、当時、Dorchester Gas Producing Co.の理事であった。理事仲間には、テキサス教科書倉庫ビル(ここからオズワルドが発砲したとされている)の所有者であり、リンドン・ジョンソンの親友であったD・H・バードがいた。

http://www.newsmakingnews.com/lm4,4,02,harvardtoenronpt2.htm


+ 1968年、ロバート・ケネディ暗殺の半年後に、プレスコット・ブッシュは、クローバー・ダレス(アレン・ダレスの妻)に手紙を書いた。そこにおいて、彼はピッグス湾事件の失敗の責任はケネディにあると述べた。

「彼は楽しいイブニングにしようと努めていたが、私はかなり気分が悪く、怒りすら覚えていました。というのも、あの失敗の原因はケネディ家にあったからです。彼らはアレンをスケープゴートにしました。アレンには罪はなく、そのような処分に値する人ではありませんでした。私が彼らを赦したことは一度もありません。」

 

 

2006年1月13日

 

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