ロックフェラーの慈善帝国と統制経済


以下のゲイリー・ノースの論文を要約する。

http://www.freebooks.com/docs/html/gncf/Chapter06.htm

1909年、ニューヨーク市共和党は、選挙前年に「ニューヨークの組織売春の繁栄を許しているのはタマニー・ホールの民主党員である」と訴えていた。州刑事記録裁判所判事トーマス・オサリヴァンは、大陪審を集めた。大陪審は、陪審員長としてジョン・D・ロックフェラー・ジュニアを選んだ。

ジュニアは、最初は拒否したが、裁判長の指示でいやいやながら引き受けた。しかし、引き受けてからは、熱心にこの問題に取り組み、裁判は予定の一ヶ月を過ぎ、6ヶ月に及んだ。タマニー派であった裁判長は、大陪審が結果を公開することを拒否した。しかし、ついに共和党の訴えは受理され、民主党員54名が起訴された。

ロックフェラーは、全国の新聞紙上で、その仕事ぶりを賞賛された。1910年36歳のときに、彼は家族企業経営から身を引き、慈善事業家、科学の支援者としての道を歩み始めた。

1911年に、社会衛生局を設立した。これは、スタンダード石油の相続者が設立した慈善団体の第一号であった。1913年に社会衛生局の局員として、プリンストン大学を卒業したての若い法律家でありニューヨーク市役人でもあったレイモンド・フォスディックを年俸1万ドルで採用した。彼の弟は、リベラル派のバプテスト説教者ハリー・エマソン・フォスディックであった。歴史家チャールズ・ハーヴェイの言葉を借りれば、彼は「ロックフェラーの慈善帝国の首相」になった。

アメリカ合衆国においてロックフェラーに並ぶ慈善事業家は存在しなかった。活動は、宗教・教育・州政府・地方自治体・医療・外交・核物理学の分野にわたった。

たとえば、ロックフェラー財団は、コペンハーゲンのニールズ・ボーア研究所に財政支援した。その一つの結果は、原子爆弾であった。もう一つの例は、ローラ・スペルマン・ロックフェラー記念財団へのビーズリー・ラムルの採用(1922年)であった。ラムルは、その前にカーネギー社長補佐を務めていた。

1923年以降、彼はロックフェラーが資金提供する社会科学研究評議会を運営した。同僚には、シカゴ大学政治学者チャールズ・E・メリアムがいた。1928年以降、この組織を通じて、ラムルは米社会科学界に資金を提供した。政府統制経済の考えを広めるためだ。

ドナルド・フィッシャーが述べたように、「社会科学者・ロックフェラーの慈善・国家という3者の間で協定が結ばれた。この協定は、それ以来、我々が社会生活を秩序立てる方法として常態化した。」 1954年、リース委員会は、免税財団に関する調査結果として「社会科学研究評議会は、今や、社会科学研究分野において恐らく最大の勢力であろう。」と述べた。

ラムルは後で、シカゴ大学の社会科学部の初代学部長になった。彼は、1935年に社会保障法の一部を起草した。1942年連邦所得税源泉徴収導入において旗振り役を務め、これは1943年に実現した。1937年から1947年までニューヨーク連邦準備銀行の理事を務め、晩年の6年間は理事長であった。

1945年、米法曹協会に対して「中央銀行の創設(1913年)と金の支払い停止(1933年)に伴い、合衆国はもはや歳入の目的で税金を徴収する必要がなくなった。税金は、富を様々なグループに再分配する手段になった。また、『様々な産業やグループへの財政支援もしくは処罰に関する』公的方針を示す手段にもなった。」と述べ、法人税(及びその代替税)の廃止を要求した。

[訳注:まるでソ連である。金の裏打ちのない紙幣の発行権を政府が握ることによって、政府は富の創造者になった。足りなくなれば、お金を刷ればよい。それゆえ、歳入の目的では税金を必要としない。

集めた税金の目的は別のものに変わった。すなわち、政府による統制経済のために使おうと。政府が集めた税金を、様々な産業やグループに対して「賞罰のために」使う。つまり、政府のおめがねに適う企業やグループには大目の配分を、適わない企業やグループには少な目の(もしくは無)配分を行う。ロックフェラーが社会科学者にやらせたかったことは、このような社会主義的統制経済理念の宣伝だった。]

レイモンド・フォスディックは、ロックフェラーに対する潜在的批判者(牧師、知識人、政治家、政治評論家)の口を封じるために、巨額のお金を「静かに、うやうやしく、プロのやり方で、官僚的に」分配した。

 

 

2006年2月7日

 

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