旧約律法に対するあいまいな態度を捨てるべきだ

<Q>
>>はっきり言って、日本の教師、牧師の中で「旧約律法は当時の人のためでなく、我々に関係がある」と教えている人は10本の指にも満たないでしょう。

>そうなんですか? 旧約聖書=律法と考え 律法は破棄された、成就されたと思って 重要視されていないということですか?
今まで そう言ってらっしゃる先生方が 詩篇を引用したり、旧約の箇所を引用されるたびに、私は旧約聖書をどう私に結びつけたらいいのだろうと思いつづけました。旧約聖書からの啓示で人に話すと、旧約は終わったんでしょう。・・・・との返事がかえります。そしてますます私の旧約聖書に対する関心が高まった時に富井さんとルークさんの論争が始まったのです。そしてわたしの旧約に対する考えが間違っていないのだと思い嬉しかったのです。


<A>
最初に、「旧約律法は当時の人のためでなく」というのを「旧約律法は当時の人のため『だけ』でなく」と言い換えてください。いい間違えました。

ご指摘まったくそのとおりと思います。
今の教師たちの頭は混乱しています。

「旧約律法は廃棄された」と言いながら、旧約から引用し、我々の教訓としています。
これは、首尾一貫していません。

こういったどっちつかずの態度は止めて次のどちらかを採用すべきです。

(1)律法を廃棄したと述べ、同時に、旧約聖書からの引用をやめて、徹底して、旧約律法を無効なものとして扱う。
(2)律法をまだ有効と述べ、律法を新約時代に相応しいように、超民族的・超時代的・超地域的なおきてとして伝える。

あの議論がはじまったのが姉妹がちょうどそのような考えに至ったという時期と一致しているのは、神様が姉妹を導いておられるからと思います。


<Q>
>また、御茶ノ水クリスチャンセンターのシオンの架け橋で呼ばれたメシアニック・ジューのガブリエル・ジュー師の講演を聞き、今まで聞いたことのない内容でした。それを聞いてユダヤ人の旧約における位置付けが私なりに分かったのです。それも、他の人とは啓示が違うようでした。次々と飢え渇きがおきたのです。


<A>
わたしも何度か「シオンの架け橋」の集会に出たことがあります。
たしかに、ユダヤ性の回復、律法の再認識など、同意できる部分がありますが、残念なことに彼らはディスペンセーショナリズムです。
そのため、ユダヤ人のとらえ方がまちがっています。
ディスペンセーショナリズムにしたがった解釈をしているため聖書解釈に誤謬があります。

ガブリエル・ジューという人がどういう人か分かりませんが、彼らが招くメシアニック・ジューの教師たちは、そのほとんどがディスペンセーショナリストであるため、その神学に対しては注意が必要と思っています。


<Q>
>主は私が関心を持つたびに解答を用意してくれます。いつも私の導き手は主でした。ですから、他の人と足をそろえることができないのです。聖霊派の神学校に行っても続きませんでした。私の求めるものを提供してくれないからです。今は福音派の教会で提供されるメッセージに満足しています。


<A>
福音派もその大多数がディスペンセーショナリズムに犯されているのですが、モロのディスペンセーショナリズムではなく、70パーセントディスペンセーショナリズム、30パーセント契約神学であるところが多いと思います。
 
こういうと気持ちをくじくようで申し訳ないのですが、しかし、事実は一応お伝えしておかねばと考えております。

 

 

2005年11月6日

 

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