なぜ聖書なのか?3


> 1、キリスト教以外の宗教も同じく「我々の会社の製品が唯一大丈夫で他の会社の製品は粗悪品」と言っているのではないでしょうか?

そうです。

> 2、そんななかでどのようにキリスト教の前提が正しいと言えるのでしょうか?

誰も、飛行機に乗る場合、オイルがもれていたり、燃料がもれているような飛行機に乗りたいと思いませんよね。
宗教とは自分の一生を託すものですから、選択眼は非常に重要です。

1.何についても言えるでしょうが、まず、選択眼を持つにはすけべ根性を捨てることです。
すけべ根性とは、「金が儲かる」「名誉が手に入る」「女にもてる」というような俗っぽいものですね。
そういうすけべ根性を持っていると、他人に騙されやすくなります。
私は1980年代にオウム真理教のビラに、「東京大学卒」というような肩書きを並べた人々がずらっと並んでいるのを見て、この宗教の教祖は俗っぽいからだめと思いました。
名誉とか地位とか金に弱い人間が何が教祖様だと。
真理があるとすれば、それは、そういうすけべ根性とは無縁のものであるはずです。

2.それから、歴史がない宗教もだめ。なぜならば、真理であれば、最近突然分かるわけがないからです。
もし神様がいて、その神様が人類の歴史はじまってからずっと我々を放置していたとしたらそんなの神様でないのは日を見るより明らかです。

3.教典がいい加減なのもだめ。客観的に頼るべき不動の書物がなく、誰か個人の言葉が重視されるようなものはだめ。なぜならば、本当に神がいるならば、人間などの言葉によってころころお告げが変化するはずがない。前と後に言った言葉に矛盾があるような宗教はでたらめです。法典がない国家が独裁になり、国民が権力のわがままに翻弄されるようになるのと同じように、不変の法典がなくて時の指導者の言動が最高権威となるような宗教は奴隷しか生まない。

4.人生の問題の根本を見極めていない幼稚なものは排除する。たとえば、先祖供養すれば救われるというような、個人の罪責と無関係なところで解決があるようなものは、「逃避」であり、「自己欺瞞」です。聖書的キリスト教以外のすべての宗教は「環境」に責任を転嫁する。共産主義は、「資本家」に責任を転嫁する。資本家を抹殺しても、何も変わらない。かえって人々は貧困になった。問題は罪にあるのです。罪が解決しなければ、どんなにすばらしい制度があっても、だめです。
輪廻なども、結局は、自分個人の責任をあいまいにする意図があります。次に蛙に生まれ変わってもその蛙が自分と何が関係があるのでしょうか。自分の責任は自分の責任としてきちんと「逃げないで」解決するようなものでなければならない。

5.不偏不党の真理、たとえば、科学的真理をむげに拒絶しない教えでなければならない。星占い、手相、その他の科学的に根拠のない教えを鵜呑みにし、理性を犠牲にせざるをえないような宗教は避ける。近代科学は、キリスト教の世界観から生まれました。聖書はきわめて科学的です。ヨブ記に地球が球であると書いてあります。

6.その宗教に入っている人々の行いが著しく悪い場合に避ける。ある程度の個人差は許されるが、総じてその宗教に入ると素行が悪くなり、家族を捨て、社会に迷惑をかけるようなカルトは避ける。イスラム教を信じられないのは、彼らの男尊女卑の思想です。社会的に弱者である女性や子供を犠牲にすることを平気で教えるような宗教は信じてはならない。キリスト教も侵略をしたではないかという人がいますが、聖書の中に「武力で神の国を拡大せよ」などと言っている箇所はありません。イエスは「剣を取る者は剣によって滅びる。それを鞘に収めなさい」と弟子に言われた。キリスト教国が侵略して、原住民を奴隷として扱った過去は、クリスチャンでもない人間がクリスチャンの名をかたってなした悪行に過ぎません。

7.直感をある程度重視する。私たちが普段から行っているように、直感でいやな気持ちがするようなものはやはりおかしい場合が多いです。たとえば、以前どこかの新興宗教が車などにべたべた変な図柄のステッカーを張って、電磁波攻撃を避けているというようなことをしていましたが、これを見ておかしいなあと直感しました。オウムもあのマークの図柄に違和感を感じていました。常識人に違和感を感じさせるものは何かおかしなものが必ずある。これは経験則です。


> 3、2のように言える理由は先生が言ったように「キリスト教以外の宗教では倫理的な論理破綻を招く」 「他の宗教では首尾一貫性において著しい欠陥がある」ことからそういえるのでしょうか?

そうです。

> 4、3に書いたこと以外の根拠はありますか?

人生を支えることができません。ヒューマニズムにおいて究極の存在は人間です。しかし、人間などに頼ることはできません。国、家族、会社、自分に頼るならば、それらから裏切られた場合に、誰も救ってくれません。

科学だけを信仰する人々は、きわめて頼りないものに頼ることになります。なぜならば、科学的事実だけが真理であるならば、祈りとか信仰の力をまったく期待できないからです。

人生で苦悩する際に「自然の法則にしたがって以外に何も起きない」と言われて励まされますか?

社会的理不尽な目にあって、たとえば、有力な政治家によって自分の家屋敷を騙し取られた場合に、「弱肉強食だからあきらめなさい」の一言で救われますか?

「神が正しく裁いてくださるのを待ちなさい」という聖書の教えによって、私たちは自分で復讐しなくても正義を期待できます。

科学や理性だけを信じる信仰は、「悪い権力者にしいたげられている町民が最後に汚名を着せられて殺されて終わる」時代劇のようなもので、そんなんでは誰もその劇を見たいと思いません。水戸黄門が人気があるのは、正義が勝つことに溜飲をおろすことができるからです。

人間は、神の被造物として正義が勝つことに満足するように作られています。キリスト教は、このような未来を約束する宗教です。

> 5、先生は「自然のなかに聖書が正しいことを示す証拠がある」と書きましたが具体的な例を挙げるとどういったことでしょうか

すべてです。たとえば、緑の木の中にオレンジがなっているのを見て、不思議だと思いませんか?どうしてこういう鮮やかな色のものが唐突に暗い色の中から出ているんだろう。梅の花が茶色い木から出ているのを見て、なぜこんなに美しいものが地味な色の中から出ているのだろう、と。

画像を処理したことがあれば分かりますが、空の色を少し変えただけで、「こんな色の空の下で生活したら気が狂うだろうなあ」と思います。自然は、私たちの目にちょうどよい色彩になっている。

> 6、私は今、どの前提が正しいのかを調べているにあたり「理性」をまず前提ずけていると思います。もうこの時点で間違ってはないでしょうか?

理性は、一つの道具であって、絶対的な前提とはなりません。なぜならば、理性は自分を裏切るからです。

道具として利用するのはよいですが、自分を根源的に支える土台とはなりません。

どんなに良いと思って選択しても、変なものを買ってしまうことがあります。人生は謎であり、自分も謎です。私たちは自分自身のことすら知りません。あることが起こって「俺ってこういうところがあるんだなあ」と驚くことがあります。

私たちの体内で何が起こっているかすら知らない。CTスキャンではじめて知る。私たちには未知のことが多すぎます。

だから、全知の神にゆだねるということがどうしても必要です。自分の判断だけに頼ると、正義のために冒険ができなくなる。

神がなく、死後の世界もなければ、「役得でおいしい思いをしよう」と政治家と結託して悪いことをやって税金をねこばばするシステムを作る悪い人間が役所に増える。そうすれば、どんなに法制度がしっかりしていても国が崩壊します。社会を成立させるのは、個々人の倫理感です。

そして、倫理とは「理性」だけでは不十分であり、それを超えて全体を遠くまで見渡せる超理性が必要です。

> 7、私はやはり先生のいうようにとにかく「聖書」を前提づけるべきなのでしょうか?

聖書を前提とすることによって、心が安定します。

人間はトラウマができると、すべてが不安になります。たとえば、道路を運転しているときに、突然トラックが目の前に赤信号で突っ込んできたという体験をするとします。すると、後々いつ自分がやられるかわからないと運転することが怖くなって「羹に懲りてなますを吹く」ようになります。

金がなくなっても、「主はあなたを捨てて孤児とすることはしない」という御言葉に信頼して乗り越えることができます。

> 8、今、気づきましたがこの議論自体も循環論証的で限界にきているのではないでしょうか?

そうですね。つきつめて考えた後に残っているのは、決断だけです。

> 9、やはりカントの言うように「理性」には限界があり人間にはどうしても前提が必要であり、正しい認識のためには理性を超えた「聖書の啓示」が必要で我々はそれを理性によってではなく「聖霊」によって信じなければいけないのでしょうか?
> それを先生は初めから伝えたかったのでしょうか?
> 人間的な理性、すなわち「論理」が絶対的な判断の基準ではなく「聖書」こそが判断の基準と言うことでしょうか?

そのとおりです。

 

 

2009年3月11日

 

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