信仰に入るには証拠を用いてはならないのか?


<R様>
.聖書を信じるにあたって科学的にある程度、確かめてみて証拠がたくさんみつかっている。だから帰納法的に聖書は正しい。だから聖書を信じよう。という信じ方は悪いのでしょうか?
よく、聖書をとにかく正しい権威として認めなさい!信じなさい信じれば救われます!とにかく信じなさい!と言う風な信じかたみたいなものが聞かれますが、それならどの宗教も同じことをいっているわけだと思います。そうなってしまうとどの宗教を信じていいのかわからなくなります。そこで科学を使った。各宗教が行っていることがどれほど正しいのか?調べる。(もちろん処女降誕など聖書には、科学的に説明がつかないものもあります。しかし、ノアの箱舟や、バビロンの遺跡などは聖書の信用性に貢献していると思います。自分は科学的にしらべるという語句をそういう意味でここではつかっています。)

そうしたら、聖書が証拠もやまほどあるし、聖書の言っていることも矛盾や循環論証がないことがわかった。だから聖書をしんじよう。

これはいけないことでしょうか?

<tomi>
帰納法的な信じ方も間違いではありません。聖書では、「被造物を見れば、神の存在と本質が分かる」とあります。

考古学的な証拠や、科学的な証拠などを信仰のためのステップとして用いることは間違いではないです。

ただし、証拠がないと信仰できないという姿勢が徹底され、懐疑から出発し、神を見下す態度があれば、神はいつまでたっても分かりません。神は高慢な人の前に自分を隠されるからです。

「神がいるなら出て来い」というような人には神は現れません。

神を信仰するために自分の身を低くし、その上で確信を得るために証拠を利用する態度は正しいと思います。

 

 

2009年3月9日

 

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