学位って何なの?


なんだか偽学位だの、偽神学者だの。

くだらない。

神学に関する学位ってのは、素人向けの目くらましでしかないってのが感想。

ロヨラ大学で博士とってどうなるの?

ローマ・カトリックだよ。

アルミニウス主義の神学校で学位とって何になるの?

ディスペンセーショナリズムの神学校の博士号って何?

そんなの何の意味があるの?

内輪の権威付けに過ぎないでしょう。

Wikipediaで僕のことを神学者って書いてあるけど、僕は一度も神学者を自称したことはない。

神学者であることにステータスを感じないから。

どうでもいい。

イエスは神学者でしたか?かえって律法学者を非難しているでしょう。

パウロは、自分が受けた神学教育を「糞土と思っている」と言った。

実際、PhDを持っている牧師を何人か知っているが、「それが何?」というレベルだ。

そもそも、神学校で勉強できるのは、基礎だけ。だって3年しか在学しないから。

僕が出た神学校は英語名はGraduate schoolだ。だから大学院。

本来なら修士の資格が得られるが、あの神学校では学位を出していないから、僕は、大学卒の文学士の資格しかない。

それで何にも感じない。なぜって?神学校で教えたいなんて思っていないから。

学界で認められたいとも思わない。

誰だか三流呼ばわりしているが、三流でも四流でも呼んでください。

ぜんぜん関係ない。論文も書くつもりはない。

論文で精緻な理論を証明する作業は大切だが、僕の使命ではない。

神学校で学ぶことは、100%の実力のうちのたかだか10%。

実際、僕は神学校で勉強したことよりも、自分で本を読んで勉強したことのほうが圧倒的に大きい。

だからといって、神学校を軽蔑するつもりはない。

神学校ではスタンダードを勉強できるから。つまり、神学に必要な道具を教えてくれる。

たとえば、聖書神学ならゲルハルダス・ヴォスのBiblical Theologyはオーソドックスだとか。

そんな程度。

あと有益なのは、先輩学生が紹介してくれる「常識」。

僕の場合は、大学のサークルでそういう基礎的なことは教わっているから、神学校では逆に紹介する立場だった。

神学の流れについては、改革派の先生の本で勉強した。

とくに渡部公平先生の『カルヴァンとカルヴィニストたち』(小峯書店)からは、カイパー、ヴァン・ティル、ドーイウェールト、そして、ラッシュドゥーニーへの流れを教えてもらった(ラッシュドゥーニーについては参考文献で触れられているだけだが)。

スタンダードは重要だが、それは過去を学ぶためだ。それまでの神学の流れ。

今の問題を扱うには、スタンダードを基礎として自分の頭で考えるしかない。

問題意識を持って考える。

この姿勢がなければ、「単なる古物収集趣味」でしかない。

いつまでもカルヴァンがどうしたとか、メツガーがどうしたとか、そんなこと現代性がない。

神学を現代の問題に適用できなければそれは本当の意味で身についていない。

だから、僕にとって関心は神学者になることではなく、現代の問題に聖書を適用するとどうなるかということだけ。

それで、僕が言っていることに賛同する人はそれでよし。賛同しないなら、サヨウナラだ。

別に反対者にまで自分の意見を紹介するつもりはさらさらない。

論理的正当性、歴史的妥当性、そういったきちんとした論拠を提示して反論する人は歓迎するが、むちゃくちゃな、論理も歴史もへったくりもない反対者は迷惑なだけ。

ほんと関係ない。

そんな一般クリスチャンに受け入れられるために学位なんてとるつもりも、論文を書いて認められるなんてことにも関心はない。

そういうことは、学者になるために生まれてきた人がやるべきことで僕はあくまでも現実性を追求しているだけ。

ということで、サッカーはPK対決という運で負けた。残念なことだが、それも一つのこやし。

今回の大会は、将来につながるいい大会だった。

日本人が同じ試合を見て、自分の国のことを考えるすばらしいひと時を与えてくれて感謝している。

 

 

2010年6月30日

 

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