確信がなければ霊的戦いには勝てない


霊的な攻撃を受けている人に、追い出しの方法を教えたところ、相手が反論してきたそうだ。

「イエスの名によって、出ていけ」と言うと、

「おまえはイエスではないではないか」との返事。

この返事に対して、「私はイエスではないが、契約によってイエスにつながっているので、イエスの権威がある」と応えられたらOK。

こう応えられずに、たじたじとすれば、相手は出ていかない。

霊的な戦いは、健全な教理の知識がなければ成り立たない。

相手は、こちらの知識不足につけこんでくる。

こちらにちょっとの隙でもあれば、がんがん攻撃してくる。

悪霊は、信仰が欠けているところを目ざとく見つける。

自分が神の子であり、イエスの権威を帯びていることにちょっとでも疑いがあるならば、イエスの名を語っても相手に馬鹿にされるだけだ。

こういった意味において、ディスペンセーショナリズムのクリスチャンは、まったく悪霊に対抗できない。

なぜならば、彼らは「この世界はサタンによって支配されている」と信じているから。

サタンに支配されていると信じているという時点で、すでに完敗しているのである。

聖書に何と書いてあるか?!!

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16・33)

ここで「勝った」と訳されている原語ネニケーカは、「征服した」という意味である。

イエスはすでに「世を征服した」のである。

イエスこそ、この世の王であって、サタンではない。

サタンが王であると聖書がいうのは、「自分の国民」つまりノンクリスチャンに対してである。

この宇宙全体の支配者はイエスであり、サタンは自分の王国の中にいる人々に対する王でしかない。

サタンの領域は限られているのである。

イエスは、この領域を縮小するために来られたのである。

イエスにつく我々クリスチャンは、戦争の勝敗が決まった土地の中でまだゲリラ活動をやっている敵兵を掃討するために召されているのである。

サタンは、この図式をクリスチャンから隠した。

ディスペンセーショナリズムという偽りを吹き込むことによって、あたかも自分がこの宇宙全体の王であるかのように見せかけることに成功した。

次の聖句をクリスチャンの目から隠した。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。』」(マタイ28・18)

黙示録1−19章をあたかも未来において起きる出来事の描写であるかのよに思わせた。

そして、これから世界の終わりがやってきて、教会は反キリストによって蹂躙され、迫害が起きると思わせた。

いかなる証拠もないのに。聖書はまるでそんなこと教えてもいないのに。

1830年代に始まったこの新しい教えは、全世界のクリスチャンを飲み込み、クリスチャンを悲観論者に変え、自らが世界の王であり、祭司であるというとてつもない権威と立場を忘れさせることに成功してきた。

我々は、悪霊をも支配する権威があるのである。

本当にこのことを確信できないならば、我々の中に場所を占めている悪霊や悪霊の影響はけっして消え去らない。

相手が恐れているのは、こちらが確信をもつことである。

人生を恐怖や不安で棒にふらせようとしているこれらの悪霊に対抗するには、聖書をまるごと信じ、絶対に疑わないという決意が必要である。

「疑ってしまうんです。どうしたらよいでしょうか。」という人がいるが、私はこう答えよう。

全身の力を振り絞って頭の中から疑いを追い払い、無理やりでも「信じます!」と言うことである、と。

問題は意志である。

自分の心に浮かんでくる感情に流されてはならない。意志によってマイナス思考を追い払うことだ。その訓練をたえずすることによって、プラス思考に変わっていく。

プラス思考なしで霊的な戦いに勝とうなんて、絶対無理だ。

 

 

2006年6月3日

 

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