裁判員制度だけでは死刑廃止の潮流を止められない


裁判員制度について詳しい方は教えていただきたいのだが、TVで、一般市民が刑罰を決め、しかも、重大な問題に関してのみ適用されると報道していたが本当だろうか。

もしそうなら、殺人事件に関して、死刑判決が下る可能性は低くなる、と予想するのだがいかがだろう。

日本は殺人犯に対する処罰意識が強いと言われており、死刑制度の存続を求める人の数が多いらしいが、しかし、一般論で死刑に賛成するということと、自分が裁判官になって、具体的に個人に対して死刑を宣告するということとの間には大きな隔たりがある。

目の前にいる人の生死を決定するには大きな勇気がいるだろう。歴代の法相の中に自分の任期において死刑執行許可を下ろすことを嫌った人がいたらしい。(死刑判決が確定した後で何年も待たせるほうが残酷だと思うが。)中には自分の信仰上、死刑制度に反対で、ハンコを押すことを拒否した仏教徒もいたと聞く(こんな人が法相になったこと自体問題だ)。

重罪事件に関して最近裁判所と一般市民との間に意識のずれがあるということを認めたとしても、裁判員制度がそれを是正できるほど国民にしっかりとした見識と覚悟があるとは思えないのだ。

聖書に基づく堅固な「義務意識」がない限り死刑判決を下すのにはかなりの勇気がいるだろう。

私が、故意の殺人者に対しては死刑以外適用してはならない、というのは、人間が神の似姿だからである。

神に究極の価値があるならば、神の似姿である人間の命にはそれに次ぐ価値がある、というのが聖書の思想である。

「これは、アダムの歴史の記録である。神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。…アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。」(創世記5・1-3)

ここで、「似る」という言葉が2回出てくる。

「神は…神に似せて彼を造られ」と「彼に似た…子を生んだ」である。

人間が自分に似た子を生むという「遺伝」の起源が、アダムが神に似せて造られたことにあるということがここから分かる。

つまり、ある意味において、アダムは、神の遺伝子を持つ子供なのである。

人間は「神の子」であり、それゆえに、人間が殺される時に、神は自分の子供が殺されたと考えておられるということが分かる。

「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」(創世記9・6)

自分の子供が何も悪いことをしていないのに理不尽に殺された時に、親はどのように思うだろうか。

裁判員に要求されるのは子を殺された親として立つ神の意志を実行することである。

宅間の事件をはじめ、子を殺された親たちは、犯人に処刑を求める感情が強い。それに対して、死刑を一種の殺人と考えるいわゆる「人道主義者」が、「殺人に対して殺人で報いてよいのか」と言って死刑判決に反対しているが、これは「子を殺された親の気持ち」を共有できないからなのである。

聖書から学ぶことがない限り、日本も世界の潮流に巻き込まれて、死刑廃止に傾くだろう。裁判員制度がこれに歯止めをかけられるとは思えないのだ。

 

 

2004年5月28日

 

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